青春時代の思い出
誰しも歩んできた人生を振り返るときがあると思う。以下は“一般社団法人:自分史推進協議会”が主催する“自分史フェスチバル”に応募した作品の一部を抜粋してアレンジしたものです。この作品については、2014年6月15日付、朝日新聞朝刊の全国版で紹介されました。工業高校を卒業して田舎から大都会に出てきた世間知らずの青年が、七転び八置きしながら苦労を乗り越えていった青春時代の思い出を綴ったものです。自分本位ですが、なにか共感を呼んでいただけるところがあれば幸いです。
1.小学校~中学校
鹿児島県南大隅町から遠くに錦江湾を挟んで開聞岳(薩摩富士)を望む
昭和33年(1958年)4月、小学校(鹿児島県肝属郡田代町(現錦江町)立田代小学校)に入学した。私は、幼稚園に行かなかったので、集団生活をするのはこれが初めてだった。1クラス45人程度で4クラスあった。産めよ増やせよのベビーブーム時代であったのでどの家も大家族で、全校生徒数は1000人程だったと思う。今では70人程度しかいないというから、ずいぶん少なくなったものである。いまでも、小学校に入学した当時を思い出すと、新しく買ってもらったノートや本の新鮮な臭いや、あの最初にひらがなを書いたときの感動が蘇ってくる。学校には毎朝7時半には着いて真っ先に教室の窓を開けていた。そのため、6時になると母を無理やり起こしていたので母はいやがった。ご飯に味噌汁をぶっかけて、お腹に流し込むように食べると急いで学校に出掛けた。なぜこのような振る舞いをしたのかわからないが、幼稚園にいかず、はじめての集団生活だったので学校が楽しかったのかもしれない。
学校では暴力教師が多かった。特に小学校5年生のときの担任が忘れられない。宿題を忘れた生徒を一列に並ばせて平手打ちしたり、みんなの前で腕立て伏せをやらせたり、野球バットをふくらはぎに挟んで座らせたりすることもあった。また、中学校のときだったか、私が職員室の前で大きな声を出して遊んでいると、職員室から出て来たK教師に「コイッ」と呼び止められて、脳天にゴツンと拳骨をもらったことがある。頭に手を添えると波打つように3つの瘤ができていた。そのときの脳天の痛かったことは今でも忘れられない。また、殴るときは必ず6回殴るので、「六発」というあだ名を持つ教師がいた。このように小学校から中学校を通して、感情に任せて暴力をふるう教師が非常に多かったが、教師の暴力に対して社会は寛容だった。特に小学生の頃の教師は総じて近寄りがたく怖かったという印象しか残っていない。
素行のよくない教師もいた。中学校での体育の授業は男女それぞれ分かれていた。体育教師は20歳代だったろうか、男子生徒によく慕われていた。体育の授業では、何を教えようとしていたかは覚えていないが、よく左手の親指と人差指で丸印を作って、そこに右手の人差指を突っ込む素振りをして生徒の大笑いを誘っていた。今から考えると明らかに性行為を真似たものだったと思うが、私は何のことかさっぱり分からずキョトンとしているばかりだった。教室から外に向かって小便をする教師がいるとのうわさを聞いたこともあった。信じられない行為なので本当だったかどうか分からないが、このようなうわさが広がる程教師の素行がよくなかったということかもしれない。また、中学校3年次の私の担任は、大酒飲みでいつも真っ赤な顔をしており酒臭かった。あだ名を「湯でダコ」と言った。この担任は、授業が8時半に始まるというのに、よく9時過ぎに出勤していた。それまでは自習だった。
いま思えば、当時学校で荒れていたのはむしろ教師の方であった。しかし、学校生活の中で、笑いながら語れる最もなつかし思い出となって記憶に残っているのが教師の振る舞いなのだから、最も大切な教師と生徒の間の信頼関係は崩れていなかったと思う。相互の信頼関係があったからこそ教師も子供に心を許すことができたのだろう。私が知る限りでは、教師の行為が問題視されることは一回もなかった。私も、教師のことを親に語ることはなかったし、どこの親も農作業で忙しく、疲れ果ててそんなことに構っておれなかったのかもしれない。勉強をしなくても親は怒ることはなく、学校の教師が何をやろうとも許されるおおらかな時代であった。今では社会的な非難を浴びるような教師の下でも、生徒は皆真面目で不良少年等いなかった。今の時代の教育問題を解く鍵が隠されているように思う。
中学3年生になるといよいよ就職又は進学の選択を迫られる。昭和42年、高度成長の真っ只中、半数程度の生徒は主に関西方面に就職して行ったと記憶している。将来、大学まで進学を予定して普通高校に通えるのは、名士や医者、その他サラリーマンや役所勤め等の数少ない家庭の子弟だけだった。クラス約45人中、進学校に通ったのは確か教師の子弟1人しかいなかったと思う。このような状況だったので、高校進学のための受験といった緊迫感はほとんどなく、相変わらずのんびりとした太平気分が漂っていた。
担任は、私に県下でも有数の某進学校に行くように勧めたが、家が貧しく、とても大学まで出してもらえるような状況になかった。そこで、ろくに勉強もせず、とりあえず受験してみたのが、国立鹿児島工業高等専門学校(国立高専)だった。しかし、国立高専は敢え無く不合格だった。後でわかったことだが、当時の国立高専のレベルは非常に高く、歴代の中で3年前の先輩が初めて補欠で合格していたということを聞いた。この先輩は学年ではいつもトップであったというから、中学校全体として相対的に学力レベルが低かったのかもしれない。このようなレベルの高い国立高専を舐めてかかった当然の結果であった。これを教訓に次に真面目に勉強して受験したのが、県立鹿児島工業高校だった。
2.つらかった高校時代
昭和42年4月県立鹿児島工業高校に入学した。専攻は電気科だった。生まれて初めて親元を離れての寮生活が始まった。それから上下関係の厳しい、軍隊のような生活が始まろうとは想像もしていなかった。
(1)寮生活
寮は学校の敷地内にあり、戦前に建てられたと思われるような古い平屋の建物が2棟、新築2階の建物が一棟建っており、それらが互いに連結されていた。古い建物は新入生用だった。4人の生徒につき8畳1部屋が割り当てられた。畳はボロボロで、入寮して間もなく体中に湿疹ができ痒くなった。ダニがたくさんいたものと思われる。特にひどかったのが便所だった。数分も入っていると強烈な悪臭が服にしみついて、なかなかとれなかった。寮生は総勢150名程度だったと思う。
毎朝6時半になるとベルの合図で起床、顔を洗う間もなく中庭に急いで集まり、班ごとに横に並んで大声で点呼をする。そして班長が舎監のところに行って「○○号室、総勢○名異常ありません!」と言って報告するものだった。小さな声で報告をしたり、ニヤニヤしたりすると平手打ちを食らうこともあった。猛犬の如く厳しかったので、あだ名を「✖✖犬」という舎監がいた。“✖✖“は舎監の本名である。眼光鋭く、地声をはりあげると天下に響き渡るようで体中が縮み上がった。威勢が良過ぎて、宿直室のドアを閉めるときの”ガタン”という激しい音が寮中に轟き渡って怖かった。剣道8段で戦時中は陸軍士官学校の教官をやっていたといううわさがあったが定かではない。点呼が終わると、次はラジオ体操、部屋や中庭の掃除と続いた。それが終わってようやく7時過ぎになって顔を洗い、7時半になるとベルの合図で食堂に集合、そして寮長の「黙祷!」の号令で30秒ほど黙祷をしてから朝食をとることになっていた。
授業が終わって寮に帰り夕食が終わると、夜の7時頃再び点呼があった。夜の点呼は寮長と舎監が部屋ごとに巡回しながら行っていた。障子を開放して横一列に並んで正座し、緊張しながら点呼の順番を待っていた。「1!、2!、3!,4! ○○号室総員4名異常ありません!」、点呼が終わると次は勉強の時間である。時々、舎監がこっそり巡回してきて、寝ていたりするとたたき起こされた。毎日がこの繰り返しである。それだけではない、何より怖かったのが上級生だった。街中であろうと銭湯の中であろうと、先輩とわかると会うたびに大声であいさつをした。後で何をされるかわからなかったからである。
入寮後、間もなく夜の9時ごろだったと思うが、新入生全員集会所に集まるように指示された。集会所に集まると3年生の先輩たちの前に新入生が正座しており、ただならぬ緊張感が漂っていた。全員が集まると、集会の目的も告げることなく、いきなりいじめが始まった。先輩に指をさされて「お前はあいさつの仕方が悪い」「声が小さい」「帽子の取り方がよくない」等と何かにつけ眼をつけられては殴られたり、たまには足蹴りされる者もいた。「蝉の鳴き声をしろ」等といていじめられる者もいた。幼い頃、父親がたまに囲炉裏を囲みながら戦時中のはなしを聞かせることがあったが、その中で、父の仲間が上官に「蝉の鳴き声をしろ」と命令され、木にしがみつく格好をして蝉になって鳴くシーンがあった。これとまったく同じことが寮で行われていたのである。おそらくこの先輩も親から同じようなはなしを聞いてそれを下級生に試したのではないだろうか。このような陰湿ないじめが日常化していたので、何より先輩が怖くてならなかった。
このような集団生活になると、人間の醜い面が表面化してくる。力のある集団は横暴になり、力の弱い者は小さくなって言いたいことも言えなくなる。人間が本質的にもっている醜い一面であろうと、子供心に感じたものであった。さらにこのような体質が国家レベルで拡がっていていくと、お隣のような恐ろしい国になっていくのだろう。「たかがされど」である。寮生が寮から脱走して悪いことをするはずもなかった。点呼などなぜ必要なのか等いろいろ疑問に思ったものである。私はこのようなやり方にいつも批判的だったので、上級生になっても決して威張るようなことはしなかった。戦後四半世紀になろうとしていたのに、しかも教育現場において、このような古い慣習が延々と受け継がれてきたことが不思議でならなかった。寮生の秩序を守るという名目で、監督側もこれを黙認していたのだろう。私はこのような寮生活が嫌でならなかった。平和な親元での生活から突然、軍隊とも刑務所ともつかないような生活に激変したので、しばらくはホームシックで寝ても覚めても、田舎の風景が頭を過ぎってつらかった。
入寮後間もなく、下宿生活かアパート住まいをすることを深刻に考えた。しかし、月謝6000円で食住足り、親にとって安心が保証される寮から出ることを許してくれるはずもなかった。このような寮生活だったので、学校から帰ると外に出るのが嫌で、部屋に閉じ込もってしまった。やがて毎日の緊張と運動不足が原因で、便秘が慢性化し痔に悩んだ。下剤をずっと使っていたので、もともと痩せていた体が病人のようにますますやせ細っていった。
人生の中で最も多感な時代に、このような厳しい寮生活を経験したことは、無意識のうちに私の人間形成に大きな影響を与えたことは間違いないと思う。これまで同世代の仲間達とどこか価値観や考えが違うということを感じ、悩むことが少なくなかった。礼儀知らずの言動や不誠実な態度に敏感に反応しがちなのは、高校時代の厳しい寮生活が少なからず影響しているのではないかと思う。もう少し大らかな人間でないと、今の時代はうまく生き抜いていけないと反省することも多い。戦前から引き継いできた時代遅れとも思えるような規律を守ることよりも、今の時代を生き抜いていくための処世術を叩き込んでもらったほうがよかったのかもしれない。
(2)学校生活
電気科は1クラス50名ほど、3クラス、女性はいなかった。学校は鹿児島市内にあったので、半数以上は地方から長時間かけて電車で通うか、寮生活をしていた。当時は大学進学率がまだ低く、家庭の事情で大学までは通えない優秀な生徒が数多く集まっていた。学力レベルはともかく、国立の難関大学に合格できるような素養のある生徒はたくさんいたと思う。担任の徳留先生には3年間お世話になった。
学校は普通教科と専門科目の授業、そして実験があった。多いときは15科目ぐらいあった。私が専攻した電気は数学と物理が基礎になるが、その基礎となる科目と専門科目を並行して学んでいくので、専門科目は原理原則を掘り下げるのではなく暗記中心にならざるを得なかった。普通科目は勉強時間が少なく内容的にも物足りなかった。後に、受験勉強をしてから分かったことであるが、普通科目については進学校とは質量ともにはるかに劣っていた。
入学後しばらくして柔道部に入部したが、屈強な先輩たちに投げ飛ばされて枯れ葉のように空中を舞うばかりで、寮に帰ると疲れ果て勉強どころではなかった。間もなく柔道部を退部した。したがって、勉強以外やることがなかったのでよく勉強した。また、勉強することが、苦労して修学させてくれている親に対する唯一のお返しだと思っていた。学校での授業、寮での規則正しい生活、この繰り返しの毎日だったので高校生活は楽しかった思い出がほとんどない。異性との付き合いなんて、夢のまた夢であった。唯一の楽しみといえば、年に3~4度の帰省だった。
3年生になり、いよいよ就職の準備である。ちょうどこの頃(1969年(昭和44年)7月)、アポロ宇宙船が月面着陸した。小さい頃から、実家の近くの内之浦ロケット実験場からロケットが打ち上げられるのを見て育ったので、ロケットにたいへん関心があった。私はアポロ宇宙船の乗組員の名前を覚えたり、ロケットの構造を調べたり夢中になった。そのような背景もあったのかもしれない。就職先として宇宙科発事業本部のある日本電気を選んだ。また、3年生になると、密かに、将来自力で大学に進学し、科学者になることを夢見ていた。そんな中、高校の図書館に行って「キューリー夫人伝」に出会った。ポーランドに生まれ、ロシアの弾圧下で幾多の困難を乗り越えながら、パリの名門ソルヴォンヌ大学を首席で卒業し、ノーベル賞を授与されるまでのキューリー夫人の歩みは、私に感動と勇気を与えてくれた。
写真は、強固な意思と溢れんばかりの知性が窺われるキューリー夫人である。私は分不相応にも、このキューリー夫人に恋をしてしまったのかもしれなかった。この本を何度も読み返しているうちに、私は男性であることも忘れて、すっかりキューリー夫人になりきっていた。このような刺激もあって、やがて私は大学進学の具体的な計画を立てた。4年間は日本電気に勤める。その間、貯金しながら受験勉強をする。普通教科の勉強をやり直すため、NHK学園の通信教育を受けるというものだった。目指すは東京工業大学(東工大)であった。すばらしい大学だと友達から聞いていたからである。今から思うと、荒唐無稽、世間知らずの無謀な計画であった。さすがに東大は知名度が高く、天才しかいかないと思っていたので敬遠した。一般には東工大の知名度は低く、工業高校の成績が良かった私は簡単に入れるだろうと高を括っていた。しかし、それがとんでもない間違いだと気付いたのは、時すでに遅し、高校を卒業してから1年後、自分を人生のどん底に落とし込んだ後だった。
3. 就職そして苦難の大学合格まで
(1)会社生活
いよいよ親元から離れて独り立ちする時がきた。1970年(昭和45年)3月だった。私は西鹿児島駅で、ブルートレイン富士号に乗っていた。窓の外にはハンカチを目に当て、涙を流しながら手を振っている母、そして父が立っていた。私は、白いセルロイドの襟カラーの付いた学生服を身につけ、着替えの入った鞄を一つ携えていた。ほぼ一昼夜椅子に座ったまま、ようやくたどり着いたのは、静岡県富士市の富士駅であった。富士市には長兄がいたからである。そこで長兄に蒲団を買ってもらった。それから、東京にいる三番目のすぐ上の兄が、神奈川県の小田急線読売ランド前駅の近くにあった、日本電気西生田寮まで車で送ってくれた。服は学生服しか持っていなかったので、さっそく兄が背広と革靴を用意してくれた。おそらく、兄も同じように学生服に鞄一つで、一人東京に出て来て苦労したのだろうと思う。
思えば中学校までの、のどかな大自然に囲まれた親元での自給自足に近い質素な生活、厳しい寮生活が嫌で内に閉じこもってしまった高校時代を経て、いきなり大都会に出て社会人となったのだから、すべてが新鮮でとまどう事ばかりだった。現代でいうと未開国の人間が、文化も文明も大きく異なる東京に出てきて、びっくり仰天しているようなものである。日本電気の独身寮では、パンにつけて食べるジャムをアイスクリームのようにスプーンで食べているところを笑われた。また、先輩に寿司屋に誘っていただいたにも関わらず、寿司が食べられず先輩に失礼した。巻き寿司は子供の頃からよく食べたが、ネタがむき出しの握り寿司をそれまで食べたことがなかったのである。また、電車を乗り越してしまったことをたいへんなことをしてしまったと思って、わざわざ駅の事務所まで謝りに行ったこともあった。
寮から勤め先の日本電気相模原事業場までは、小田急線で町田駅まで行き、そこで横浜線に乗り換えて相模原駅で降り、社バスに乗り継いで1時間半ほどかかった。配属されたのはクロスバー交換機(電話交換機)の製造技術部であった。最初の土曜日になって、午前中で帰宅しようとしたところ先輩に注意された。学校と同じように考えていたのである。今では信じられないかもしれないが、土曜日半ドンどころか、ほとんどの社員が日曜日も休みなく働いていた。当時は、高度成長の真っ只中だったので、仕事をしながら受験勉強することができないことは、入社後一週間も経たないうちに分かった。
ある日、高校の先輩が飲みに誘ってくれた。町田市付近のキャバレーである。それまで女性と付き合ったこともない世間知らずの純朴な少年を、いきなりキャバレーという想像もできない別世界に誘ったのだ。割礼儀式のつもりだったのかもしれない。キャバレーの中に入るとそこにはミニスカートのお姉さん達が屯しており、私の隣にも厚化粧のお姉さんが座って体をくっつけてきた。私はどう対応してよいか分からず、緊張でその場にいたたまれなくなりキャバレーを飛び出してしまった。先輩に申し訳なく気まずい思いをしたのを覚えているが、その後どうなったかはよく覚えていない。
やがて、会社にもある程度慣れ、進学に悩んでいる工場現場の先輩と仲好くなった。彼は、大学に行きたくても実家に仕送りをしないといけないので、とても進学できないとこぼしていた。それに比べると自分はまだ仕送りは必要ないから恵まれている、と私は都合よく解釈した。また、旺文社から刊行されている大学受験生向けの月刊雑誌である「蛍雪時代」というのがあって、その付録に掲載されていた、高専から現役で大学に合格したという体験記に感動した。この人は、高専の卒業年の春になってから受験勉強を開始し、現役で私と目標を同じくする東工大に合格したということだった。「これなら自分でもできる」と都合よく解釈し勇気を得た。簡単でないことは後でわかるのだが・・・ 実はこの私に勇気を与えてくれた合格体験記の著者(現東工大教授)と、それから7年後に就職した某精密機器メーカーで親しくしていた先輩とが、高専時代に同じクラスだったということを後に知った。人生の巡り合いとは不思議なものである。その合格体験記の著者は、高専でも成績がトップクラスであったということだった。高専でトップの人と、高専に不合格だった私とでは比べるべくもなかった。しかし、無知であることが却って幸いすることもある。「人間万事塞翁が馬」である。
そのような中、A新聞社が新聞奨学生を募集していることを知った。新聞配達をしながら奨学金をもらって大学に進学することを可能にするという制度だった。そこで、さっそく東京本社のA新聞社に出掛け面接を受けたところ、面接官がさっそく豊島区要町にある新聞専売所に電話をかけ、「好青年が志望しているがどうしましょうか。」等というようなことを言っていた。そして、その場で再就職が決まった。日本電気に就職した年の8月だったと思う。そこで、翌月9月に退職願を提出し、日本電気を退職した。いま思うに、親としてはせっかく一流企業に就職させたのに、新聞配達の職に就いたのだから、どんなにか嘆き悲しんだだろう。
(2)裏切られた新聞配達奨学生制度
翌月(1945年(昭和45年)10月)、専売所にはすぐ上の三番目の兄が付き添ってくれた。そこで専売所の所長と面談している際に、同席していた所長の奥さんに開口一番言われた。「お兄さんはしっかりしていらっしゃるのに、この子(私のこと)は落ち着きがないわね~。でも目がすごく澄んでるわ~」だった。初対面で失礼なことをズケズケという勝気な奥さんだった。純朴で一直線に前ばかり向いていた少年だったから、おそらく目が澄んでいたのは確かだったに違いない。「落ち着きがない」と言われたのは、一流企業を辞めてこれから新聞配達を始めようとしている自分に対して皮肉を言われたのだろうと思う。他人から真正面に批評されたのはこれが初めてだったので、今でも鮮明に覚えている。専売所に住み込みで働くことになっていたのであるが、間もなく兄が見兼ねて近くにアパートを借りて同居してくれた。この兄がいなかったら今の自分はなかったと思う。
新聞配達員は10名程度いた。2~3人が専属で後は学生だった。新聞配達は、朝刊と夕刊それぞれ400部くらいだった。朝刊は朝3時半に起床して仕分けし、自分の配達地域まで自転車で運び、予め要所々々に必要部数だけ分割して置いておく。そして、決められたルートに従って配達して行くのである。たすき掛けにした柔道用の白い帯に、新聞を巻いて走りながら配った。特に雨や雪の日の配達は、道悪の中を新聞が濡れないようしなければいけないのでたいへんだった。私は不慣れだったこともあり、雨の日に新聞を濡らして配達先でよく怒鳴られた。配達には1時間半ほどかかり、その間アパートの階段の上り下りをはじめ、家並みを縫うように足り続けたので相当の体力を使った。朝食が終わると疲れ果て、それから寝るのが日課になってしまった。疲れがとれた頃になると、今度は夕方4時から夕刊の配達である。夕刊の配達が終わると翌日の織り込み広告を入れるための準備があった。それだけではない、集金までやらされた。何回集金に行っても不在だったり、居ても「今は忙しいから後で来てくれ」等と言われて支払ってくれないことがあったので、集金はたいへんだった。さらに、勧誘もやらされた。よく、勧誘の日になるとこの道のプロがどこか関西あたりからドヤドヤやってきて勧誘の応援をやっていた。当然ながら勧誘に行っても警戒され、ドアを半開きにして新聞の勧誘であることを告げると、”ガタン”と閉められることが多かった。世間知らずの純朴で内気な少年が、このような仕事で成績を上げられるわけもなくつらかった。このように、予想に反して早朝から夜遅くまで重労働だったが、月給は1万5000円と、一般の給料より安かった。ちなみに、日本電気での初任給が2万5000円程だったから、いかに安月給だったかがわかる。このような状況だったので、専売所を辞めていく者も多かった。当初の奨学生募集で期待していた環境とはあまりにかけ離れており、受験勉強どころではなかった。騙されたという思いが強かった。こんなことでは大学受験どころではないと思い、翌年3月になって新聞配達も辞めてしまった。
(3)出会いと再出発
アパート代は兄が支払ってくれたので、食事代だけ稼げば何とか生活できたので、一か月も働けば2~3か月は生活できた。しかし、電気代を節約するため、夜は10Wの蛍光灯1灯のみ点灯して勉強していたので、視力が急激に衰えていった。また、食事もご飯は3~4日に1、2食、他はパンのみで生活する等、相当の貧乏生活を余儀なくされた。
新聞配達を辞めてから最初にやったアルバイトが、ある著名な百科事典の訪問販売だった。しかし、この会社は働き始めて間もなくマルチ商法で摘発され、会社に商売用のテキスト代を支払った分だけ損をして実績を上げる間もなく辞めてしまった。1971年(昭和46年)4月のことだった。ちょうどこのアルバイト先の説明会の会場で、その年東大に合格したという学生と出会った。その学生から、駿台予備校から東大に毎年1500人ほど合格しているということを聞いた。私は、それまで東大とは天才が行くところだと思っていたので、それほどたくさんの天才がいる学校なんてあり得ないことだと思い、信じられなった。また、それまで予備校など私とは無縁の世界だったので、予備校というところが何をするところすら知らなかった。翌日、さっそく、御茶ノ水の駿台予備校に行ってみた。すると壁には東大はじめ、難関大学合格者名がずらりと並んでおり、只々驚くばかりで信じられない光景だった。そして、わずかながら貯金があったので、さっそく駿台予備校の夜間部に入学の手続きをとった。
ちょうどその頃、学生運動が盛んであった。駿台予備校の隣の明治大学には学生運動の拠点があり、たまに予備校の教室まで催涙ガスが流れ込んでくる、お茶の水駅付近では、学生が通りに留めてあった車を勝手にひっくり返して火炎瓶を投げつける等、騒然としていた。しかし、私はそんなことに構っている余裕はなかった。
それからは、昼間はアルバイト、夕方になると予備校の生活が始まった。予備校に入学して間もなく生まれて初めて模擬試験なるものを受けた。正確には覚えていないが、結果は夜間部約600名中、ほとんどビリに近かった。それまで幾多の困難にぶつかりながら、ただ前だけを向いて突進してきた挙句の結果に、これからいったいどうすればよいのか、只々茫然とするばかりであった。しかし泣き言を言っても誰が助けてくれるわけでもない、前に進むしか他に道はなかった。受験とは無縁の天下太平の工業高校の普通教科の学力そのものでは、難関大学の受験には全く通用しないことをその時に初めて知ったのである。高校1年の勉強からやり直しだった。その時、すでに高校卒業から1年が経過していた。
百科事典の訪問販売の仕事を辞めてから、ビル清掃、ビル建設、鉄道建設、土地の測量助手、喫茶店のボーイ等さまざまなアルバイトを経験した。当時は週刊アルバイトニュースなるものがあって、アルバイトには事欠かなかった。しかし、定職を持たず明日はどうなるかも分からないような身には、きつくて時給の低い仕事しかなかった。いまでも週刊アルバイトニュースを開いたときあの独特の油の臭いを嗅ぐと、あの頃のつらかった思い出が蘇ってくる。
アルバイトの中で、最も思い出に残っているのが、NHKホールと中野サンプラザの墨出し工事である。1971年(昭和46年)だったと思う。このときお世話になったアルバイト先は十数名の小さな測量会社であったが、現在社員数が数百名の大きな会社に成長していることを知って感激した。最近になって当時の思い出をメールで送ったところ社長から感激のご返事をいただいた。この頃、新宿に建っている高層ビルといえば京王プラザホテルくらいのもので、まさにこれから高層ビルの建設ラッシュが始まろうというときだった。NHKホールも中野サンプラザも、この頃の高度成長時代を象徴する建物だったと思う。今でも年末の紅白歌合戦を見ていると、必死に前だけを向いて頑張っていたこの頃のことを懐かしく思い出す。これらの建物は私の青春時代のシンボルでもある。
建設中の中野サンプラザ
NHKホール
1971年(昭和46年)も暮れになると、受験勉強も順調に進んでいたが、成績はまだ浮き沈みが大きく道半ばであった。孤独に耐えながら苦労していると、年末年始は尚一層寂寥感が募ってくる。1972年(昭和47年)1月15日の成人式の日の早朝、私は仕事着に長靴を履いて電車で埼玉県の川口に向かっていた。電車の窓から外の風景をぼんやりと眺めながら、同年の若者達が成人式を祝ってもらっている様子が頭に浮かぶと、寂しく涙が出そうになったのを覚えている。川口では、何のための測量だったか知らなかったが、地中に打ち込まれた水準点の上に垂球を吊り下げる仕事をやっていた。「右~!」、「左~!」、「走れ~!」等と指示を受けると、たまに田んぼの隅にあった肥溜めに足をとられながら、リモコンロボットのように田んぼの中を駆け回っていた。
ちょうどその頃、連合赤軍による山岳ベース事件、続いて浅間山荘事件が起こり、世の中は騒然としていた。仕事を転々とし、素行のわからない者に対して世間は冷たく、仕事も給料の安い辛いものしか選択の余地がなかった。昼間からアパートに籠って勉強していることも多かったので、周りには不審人物と思われていたのかも知れない。ある日、アパートの大家が勝手に部屋に入って何やら調査したということを後で知った。当時学生運動で世の中が騒然としていたので、過激派の一味と勘違いされていたのかもしれない。兄はほとんど出張で、たまにアパートに帰っても寝泊りするだけでほとんどアパートにいることはなかった。また、友人もなく世間に対して引け目を感じていたので、気が狂ってしまうのではないかと思うほど寂しくてならなかった。この頃ほど、孤独のつらさや危うさというものを感じたことはなかった。今は家族に囲まれて孤独とは無縁ではあるが、孤独のつらさや危うさは経験してみないと分からないものだとつくづく思う。日本電気を辞めてから両親とはほとんど連絡をとらず、両親に泣き言をいうこともなかった。まさに、「こころざしをはたして いつの日にか帰らん 山はあおき故郷 水は清き故郷(作詞/高野辰之)」の心境そのものであった。しかし、ある日、父から小包が届いたことがある。小包の中には父が自分で薬草を乾燥させて粉状にした手作りの薬が入っていた。この時ほど父の情愛を感じたことはなかった。心配をかけていたと思う。こんな中、高校の担任であった徳留先生から、励ましの手紙を何回かいただいた。ほんとうに嬉しかった。
予備校近くでの学生運動(神田駿河台)
受験勉強開始から1年後(1972年3月)に受験した東工大は不合格だった。しかし、まだ力を出し切っていないと思っていたので、それほど落ち込むことはなかった。2年目になると、これ以上兄に迷惑をかけるわけにいかなかったので、背水の陣で臨んだ。金銭的な余裕がなかったので、2年目は定期的に行われる模擬試験のみを受けた。成績はみるみる急上昇し、模擬試験では常に10番内に入るようになっていた。秋になると、理数系科目の成績では、同じ年に東大理Ⅲ(医学部)に合格した受験生とも肩を並べるようになり、目標の東工大はいつも安定した合格確実圏に入るようになっていた。なんと天才しか入らないと思っていた東大も、最後の模試では合格確実圏に入っていた。しかし、漢文と歴史について自信がなかったことや、つぎは失敗が絶対に許されなかったので目標通り東工大と決めた。受験勉強とは無縁だった工業高校卒の凡人の私でも、働きながらの2年間の受験テクニックの特訓の末、通称天才達の一歩手前まできたのである。しかし、簡単にここまできたわけではない。身も心も限界に達していた。
翌年(1973年(昭和48年))、東工大を再受験、そしてついに合格した。合格者の掲示板の前に立って自分の受験番号を見つけたときは、受験番号を見つめたまましばらく放心状態だった。そして天を仰ぎながら一人静かに涙を流した。あの高校時代に図書館で出会った「キューリー夫人伝」から、苦節3年以上が経過していた。
4.恵まれた大学時代
(1)奇跡的な出会い
1973年4月、ようやく夢にまでみた東工大に入学することができた。大学は目黒区大岡山の高級住宅街の一角の広大な敷地の中にあった。威容を誇る本館の前には満開の桜が咲き誇っていた。さっそく、大学厚生課に出向いて下宿を紹介してもらった。そして、幸運にも田園調布の大家の離れにあった1DKの一軒家を紹介してもらった。大家にあいさつに行くと、小柄で温厚そうな老翁と、和服を着た清楚なご夫人が出迎えてくれた。いろいろ話をしているうちに、訛りからご夫婦は同じ鹿児島の出身であることがすぐに分かった。あとで、この老翁は、何とイ号潜水艦の司令官として真珠湾奇襲攻撃に参加した猛将であったことを知って驚いた。エリート中のエリートしか入れなかった海軍兵学校を優秀な成績で卒業し、終戦時は海軍少将だったらしい。人は見た目ではわからないものである。大家の広大な敷地には、何件もの建物が立っており、そのうちの1棟には日本航空のスチュワーデスが数名入居していた。つい先日まで明日のわが身はどうなるかもわからないどん底の生活をしていたのに、なんということか、あこがれの日航のスチュワーデスといっしょに同じ敷地内に住むことになるとは。しかも、田園調布。地から天にも昇るような心境だった。
下宿近くの田園調布本町 「桜坂」
下宿に入居後、たまに老翁が夫人を怒鳴りつける声が聞こえることがあったが、夫人はいつもニコニコしながら「ハイハイお父様わかりました。」と言って謝っていた。夫人が完全に上手だった。孫もこの夫婦に対して「おじいさま」「おばあさま」などと、それまで聞いたことのないような格式の高い呼び方をしていた。身なり、言葉遣い、家のたたずまいまで、すべてが折り目正しく見えた。まるで自分とは無縁の上流階級のテレビドラマを見ているようだった。鹿児島は、代名詞のように男尊女卑の県であるといわれているが、その真の意味は女性が強く上手ということだと思う。しかし、現在、男尊女卑は有名無実化しており、私の父も母の尻に敷かれていた。
大学入学後さっそく、高校時代の恩師で、高校卒業後励ましの手紙を何度かいただいた徳留先生にお礼の手紙を書いた。当然私の住所欄には大家の住所である○○○宅と書いていた。間もなく徳留先生から返事をいただいた。そこには「君の下宿の大家さんの名前は△△△氏ではないか」ということであった。何と、大家は徳留先生の親戚だったのである。大家の氏を「今和泉」といった。「今和泉」は篤姫に代表される薩摩島津家の分家固有の家号である。私が下宿した今和泉氏も、この分家とゆかりがあるのではないかと思うが、大学卒業後お会いする機会がなかったので確かなことは分からない。この奇跡的な出会いは、私の人生観も変えるほどの衝撃的なものであった。このような縁もあって大家には下宿代を安くしてもらったり、大家の孫の家庭教師を任せられるなど、大学を卒業するまでの4年間いろいろとお世話になった。今和泉氏は私の人生の恩人の一人である。
この年、あの工業高校を卒業してから苦節3年半経って初めて鹿児島に帰省した。こころざしを果たすまでは帰省しないと決心していたからである。無我夢中で必死に生きながら、こころざしを果たしての帰省だったので感慨無量だった。ふるさとは相変わらず、別世界のようにのどかでのんびりしていた。しかし、都会の雑踏にもまれながら忙しく生きることに慣れてしまった私は、刺激の少ない田舎にどこか居心地の悪さを感じていた。
(2)満ち足りた学生生活
大学入学後間もなく、電気電子系の入学祝賀会が開催された。学生はもとより教授や同窓生も大勢参加していた。私は、優しい眼差しをした、先輩と思しきもの静かな感じの老翁の横に座った。そして、入学までの苦労話し等をすると、その老翁は何度も頷いてくれた。祝賀会も終わりに近づいた頃、先輩が後ろから私の背中を人差指で突いて、「君の隣に座っていた人は高柳健次郎先生だぞ」と教えてくれた。私はそのとき、「高柳健次郎」のことをよく知らなかった。高柳健次郎氏といえば世界で初めてテレビ受像機の開発に成功し、「テレビの父」と呼ばれ、文化勲章を授与された偉人である。私は驚くと同時に、人生の中でこのような偉人と談笑できたことを誇らしく思った。
大学の授業料は、今から思うと信じられないが、年間36000円だった。その他に必要な経費は格安な下宿代10000円(もちろん部屋代のみ)と、その他食事代や書籍の購入費が主なものだった。奨学金が6000円あったので、月40000円を稼げば十分だった。もちろん実家からの仕送りは全くなかったので、生活費はすべて自分で稼ぐ必要があった。当時は、毎年数十パーセントのベースアップがあるほど賃金が上昇していたが、それでもあの苦労していた頃と同じような重労働のアルバイトをしていたのでは学業が成り立たない。しかし、東工大では家庭教師や学習塾教師等の、高収入のアルバイトを多数募集していた。私はさっそく応募して、東急東横線の祐天寺にあった小さな学習塾で働くことにした。給料がいくらだったか正確には覚えていないが、夕方2~3時間、週に3日も働けば十分生活することができた。ここで1年ほど働いたが、塾長との折り合いが悪く間もなく辞めてしまった。
次に勤めたのが、大森にあった学習塾だった。K塾長は、たいへんな人情家であった。私の苦労を知ってか、給料の他にたまにポケットから財布を出して小遣いをくれたこともあった。時給は1500円~2000円と、当時としては破格の時給だったので、日常の生活に不自由するどころか貯金もできた。教師の仲間には同じ東工大生が他に2人、東大法学部生が1人、その他専任の副塾長がいた。この副塾長は若くて遊び人だったので、学習塾の授業が終わるとよく夜半まで分不相応にナイトクラブに連れて行ってもらった。この頃になると、先輩に誘われたキャバレーから飛び出したあの18歳の頃と比べると社会経験も積んでいたので、楽しかった思い出として記憶に残っている。ナイトクラブというような高級クラブに通ったのは、私の人生でこれが最初で最後だった。この塾で、大学卒業まで3年間お世話になった。K塾長は人生の恩人の1人である。
私生活面でもいろいろな人に支えられて何一つ不自由することがなく、すべてに恵まれていた。実は、このような状況をある程度予測していたからこそ、絶対に国立大学、しかも難関大学に受からないと入学後は生活していけないと思っていた。授業料の高い私立大では、とても学業と仕事を両立させることはできなかったと思う。
つい先日までの、明日のわが身はどうなるかわからないどん底生活から、身分が保証された恵まれた生活に変貌したので、高校時代の初志であった科学者になるという夢はすっかりどこかに飛んでしまっていた。大学の授業には出席しないことが多く、図書館で自習するか、でなければ学習塾で働いていた。しかし、勉強は真面目にやっていたので、試験の成績は悪くはなかった。
当時、私が専攻した電気・電子系は、花形の学科で人気が高く優秀な学生が多かった。また、私のような貧乏学生は稀で、見るからに育ちの良さそうな真面目な学生が多かった。各界で主要なポストについている親の子弟や、海外からの国費留学生も多かった。タイから国費留学していた友人のウイラー君は、タイで最も優秀な高校でトップだったという。日本語も儘ならないのに、試験ではいつも優秀な成績を修めていた。どこか頭の構造が違うとしか思えなかった。彼は現在母国の国際大学の副学長として活躍している。このような多くの優秀な学生達といっしょに学ぶことができたことを誇りに思う。
東工大は文系の教養科目に力を入れており、政治学の永井陽之助教授、文学の江藤淳教授、経済学の矢島欣次教授等、錚々たる教授陣が名を連ねていた。政治学の永井教授は、張りのある声で精力的に立て板に水の如く、延々と2時間もしゃべり続けたので印象に残っている。著名な政治学者であったので、おそらくその道に通じた人にはたいへんな名講義であったに違いないが、私には難解なところが多かった。単位取得のためのレポートの題目は「スケープゴーツの事例を挙げて論ぜよ。」というようなものだったと記憶している。私は、このようなレポートを書くのは初めてだったので、何を書いてよいのかよく分からなかった。ちょうどその頃、週刊誌の「週刊現代」に永井教授の対談集が載っていたので、その一部をコピーするなどして提出した。なぜコピーがバレるようなことをやったのか忘れてしまったが、当然の如く成績は45点で、単位を落としてしまった。4年間通じて単位がとれなかったのはこれだけだった。しかし、このような著名な教授陣から教養課程の授業を受けたことは、その後の人生において大きな刺激になったと思う。最近になって東工大では学部における教養課程の教育が、昔と比べるとやや疎かになっていると聞いたが、もし事実であるとすれば残念なことと思う。しっかりした人間教育を行う為にも、学部こそ教養課程にもっともっと力をいれるべきではないだろうか。
大学も4年生になり卒業論文を書かないといけない。専攻したのは医用電子だった。圧電フィルムを使った胎児心音計の研究であったが、相変わらず5時になると塾のアルバイトをやっていたので、満足できる研究はできなかった。研究室の主任教授の安田先生はダンディー、温厚な人柄で、酒席では学者らしからぬとても楽しい人間味溢れた先生だった。この安田先生や直接ご指導いただいた小林助手(後に拓殖大学教授)の温情もあって、未熟な卒論も無事通過させていただいた。当時でも7~8割の学生は大学院に進学していたので、私も大学院に進学したかった。しかし、時間的に研究に打ち込めない私に対して先輩から、「大学院ではいまのようにアルバイトを続けているようではダメだよ」と忠告された。私もそれは理解していた。そこで已む無く就職することにしたのである。自分よりはるかに優秀な学生を数多く見てきたことや、思うように学問に専念できない状況だったので、科学者になるという情熱はすっかり消え失せていた。
大学4年次の春のある日のこと、学習塾の帰りに副塾長と飲み明かした後、夜中の1時頃帰宅した時だった。郵便ポストに某電気メーカーからの手紙が届いていた。明日早朝会社に来るようにというのである。用件は詳しく記載されていなかった。そこで就職を応募したことを思い出したので就職説明会があるのだろうと思って、翌日早朝、目をこすりながら某電気メーカー本社に出掛けた。会社に着くと、1人づつ呼ぶから部屋の外で待っていろという。自分の番になり部屋に入ると、そこにはいかにも技術者と思しき硬い表情をした2人の中堅社員が椅子に座っていた。なんと1次の専門面接だったのである。「あなたはスピーカーに興味があるようだが、スピーカーの種類とその特徴を述べて下さい。」など、いろいろ技術的なことを質問された。そのとき、応募用紙の「関心のある技術」の欄に“スピーカー”と書いていたことを思い出した。某電気メーカーは音響機器の製品を製造していたので、軽い気持ちで書いたに過ぎなかった。前日の酔いも覚めない中、心の準備も試験の準備も出来ていなかった私は、いいかげんな返答をするばかりだった。人物評価につながるような質問はほとんどなく、純粋に専門的な知識を問う面接であった。数日が経過して、不採用通知が届いた。本人にとっては一生を左右する一大事にもかかわらず、あまりにあっけない採用試験に唖然としてしまった。
いよいよ真面目に就職活動しないといけないと、そのとき初めて反省した。次に応募したのが、某精密機器メーカーであった。卒業研究が医用電子であったし、某精密機器メーカーは内視鏡の技術では世界一を誇っていたので親しみを感じていたからである。筆記試験、専門面接、役員面接の3回の試験があった。某電気メーカーの失敗があったので、筆記試験に対しては周到な準備をした。そして2次面接まで合格し最後の役員面接になった。その役員面接で「どんな仕事をやりたいか」と聞かれた。私は優等生らしく「どんな仕事を与えられてもベストを尽くします。」と答えてしまった。この迂闊な発言が、一事が万事、入社後の運命を決めることになる。採用試験が終わって無事採用が決まった。
あとがき
誰しも年を取っても夢はあると思う。しかし、年齢を重ねるごとに人生経験が邪魔してどうしても慎重な行動になりがちである。怖いもの知らずにひたむきに夢に向かって挑戦できるのは若者の特権だと思う。若い時代に夢に向かって苦労を厭わず努力を重ね、やがて実業界や芸能界等の分野で大成した人は枚挙に暇がない。 私はこのような人たちとは比ぶべくもないが、高校卒業から大学卒業までの7年間は、今から思えばこれまでの人生の中で最も輝いていた期間であった。科学者になるという初志は果たせなかったものの、この間の苦労はその後の人生の大きな心の支えになった。しかし、学問をこころざすのであれば、できることなら経済的な面で苦労すべきではないと思う。東工大では本年(2017年)1月、昨年ノーベル賞を受賞した大隅栄誉教授による「大隅良典記念基金」が創設された。私もわずかではあるがさっそく寄付をした。大隅先生のお志は、学問をこころざす優秀な学生の大きな励みになるものと期待している。
これまでの長い人生の節目々々において多くの幸運に恵まれたが、それは人との出会いによってであった。まさに、人生は良くも悪くも人との出会いに始まり人との出会いに終わる。さらに、これらの出会いにもその契機となる複雑な要因があった。このように考えると私の人生の瞬間々々は、内的及び外的な複雑な事象をパラメータとする複雑な方程式の解として導き出されるものかもしれない。しかし、大学に入学したときの下宿でのあの単なる偶然とは思えない奇跡的な出会いをどう説明できるのだろうか。
私は人間も自然の一部であり、個々人の生き方はそれぞれ異なっていても、自然環境を含めた集合体として、自然の摂理に従うように生かされているのではないかと思う。そしてその自然の摂理に従うように生きることが最も理想的な生き方ではないかと。喜怒哀楽といった感情や行動が自然の摂理から外れるほど、その揺り戻しとしての戦争や自然災害といった災難も大きくなる。
生命誕生から現在に至るまでの気の遠くなるような悠久の歴史を考えると、科学技術の歴史は無に等しいほどに浅く、まだまだ発展の緒についたばかりである。また、昨今の様々な社会問題を考えると、これを扱う人の心もまだまだ未熟であり、現代を科学技術代ととらえるなら今はその原始の時代と言えるのかも知れない。この世にはまだまだ知られていない自然を支配している原理や法則がたくさんあるのではないだろうか。それを意識として知ろうと知るまいと、我々はそのような自然の中で生かされている。ひょっとすると、あの不思議な出会いも美しい自然法則に導かれたものだったのかもしれない。
おわり
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