徒然なるままに

あるがままを生きる

フェレット_パムとマロン

 パンちゃんとマーちゃんが我が家に来たのは2007年の春だった。次女による衝動買いである。縁あって我が家に来たとき、手のひらに乗るくらいのそれはそれはかわいらしく、娘が衝動買いをしたのもわからないではなかった。やがてマーちゃんとパンちゃんの世話を私がやるようになってしまった。子供にせがまれてペットを買ったはよいが、ペットの世話は親がやる、といったたぐいのはなしはどこの家にもありそうだ。我が家もその例外ではなかった。毎朝5時に起きて小屋(籠)の掃除、食事の準備、つぎに散歩をするのが日課になった。フェレットはほとんどの時間を寝て過ごすので、犬や猫と比べるとはるかに手がかからない。それに静かで近所迷惑になることもない。

 朝起きてマーちゃん達の小屋に近づくと、ガサガサと小屋を揺らしながら「出してくれ」とせがむので、私が小屋の入り口を開けると、マーちゃんとパンちゃんは歓喜したかのように私に飛びついてくる。彼らを抱き絞めると温かいぬくもりが全身に伝わってくる。彼らの世話をする苦労をすべて忘れさせてくれる幸せな瞬間だ。

                         よく遊ぶマロン


 フェレットは遊びが大好きである。中でも追っかけっこが大好きだ。私が追いかけると部屋中を走って逃げ回るかと思うと、私が反転して逃げると今度は必至に追いかけてくる。遊んでやらないと、足に飛びついて遊びを誘ってくる。また彼らは好奇が非常に旺盛で、それまで見たことがないものがあると鼻でクンクン臭いを嗅いだり転がしてみたりする。彼らの行動を見ていると、我々が幼年時代や少年時代に友達と無心に遊んだ頃の行動にそっくりである。彼らは万年、無心な幼児なのだ。だからいつまでもかわいらしく飽きない。残念なのは彼らがめったに声を出さないことだ。声をださないので、なおいっそういじらしくなってくる。おそらく、弱い動物であるがゆえに、弱肉強食の世界で周りの動物に気付かれないように行動しているうち、声帯が退化してきたのではないだろうか。

 パンちゃんは我が家に来てからわずか1年でリンパ腫にかかってしまった。獣医に見てもらったが彼らは臓器が小さすぎて手術による治療は非常に難しいらしい。獣医に看てもらうのは気休めにすぎなかった。フェレットの多くはリンパ腫などの癌で死んでしまうという。生まれて間もなく臭腺の除去や去勢が行われるため、ホルモンのバランスが崩れるのが一因ともいわれるが詳しいことはわかっていないようだ。必死の看病にも関わらずパンちゃんは発病からわずか数か月で死んでしまった。それは表現するのが憚られるような壮絶な死であった。私はかわいそうで自宅の庭に埋めるとき、娘たちの前で大泣きしてしまった。悲壮な死を目前にしてこれほど悲しい思いをしたことはそれまで余りなかった。


                       遊びを誘うマロン


 その後マーちゃんは家族の一員としてパンちゃんの分まで愛情たっぷりに育てた。子供ができるとしばらくは子供中心の生活になるが、まさに我が家はフェレット中心の生活になった。しかもフェレットに限らず、ペットは万年幼児のようなものだからこの状態はペットが死ぬまで続く。

 マーちゃんとは7年の付き合いだったが、パンちゃんと同じようにリンパ腫を患ってあの世に行ってしまった。この7年、何回「マーちゃん、マーちゃん」と呼んだろう。毎日数十か回は呼んだので相当な回数になる。”マーちゃん”が口癖になってしまった。我が家は、この小さな動物であるマーちゃんに癒され、健康的で明るい毎日を送ることができ感謝しても感謝し切れない。

                         よく寝るマロン


 パンちゃんとマーちゃんにはできる限りの愛情を注いだが、果たして彼らは幸せだったのだろうか。ペットの生活は野生動物と比べるとはるかに単調な生活である。フェレットの思い出を書こうとしても、単調な生活だったが故に、原稿用紙十数枚もあれば十分だろう。パンちゃんやマーちゃんにとって退屈な毎日だったかもしれない。苦労あっても大自然を思いっきり駆け回りながら生きる方が幸せではなかったのか。動物を狭い籠の中に閉じ込めて育てるというのは、いくらかわいがっても人間のエゴに過ぎないのではないか。なにより、この子たちはペットとして生まれて間もなく、親から引き離されて売買されるという悲しい運命にさらされてきた。

 こんな小さな動物であっても人間と同様に喜怒哀楽をもっていることは明らかである。どのような動物も子供に対する愛情、死への恐怖などの本能的な能力も人間と何ら変わるところがない。なのに、単に顔形や知能が異なるというだけで、人間は余りに動物の命を粗末に扱っていないか。センチメンタルに過ぎると言われるかもしれないが、いろいろと自問自答した。


 鳥類や哺乳類ははるか遠い古生代デポン紀(4億年前から3億5千万年前)においては魚類を、続く3億年前までの石炭紀においては両生類を共通の祖先とするこの地球の仲間である。いや仲間というよりは兄弟なのだ。人間も例外ではない。20億年前の真核生物から様々に姿形を変えながら現在に至っている。その証左として、胎児は受胎から30日余りの短い期間に30数億年にわたる生命進化の歴史を再現しながら成長するという(三木成夫:胎児の世界―人類の生命記憶 (中公新書))。また、三木は「原初の海に、太古の原形質が生まれたのが、今から三十億年の昔といわれております。以来この海水の中でえいえいと進化を続け、そのあるものは、少なくとも五億年前に脊椎動物の祖先となり、やがて、それが古代緑地へ上陸を敢行する。この悠久の物語が母胎の内では、わずか一か月あまりの時の流れで再現される・・・。」と述べている。遺伝子は生命進化の歴史を記憶したメモリであるともいわれる。三木は生命科学が今日ほど進歩していない時代に、解剖学的所見からこのことを見抜いていたのだ。

 人が動物たちに共感し癒されるのも、この悠久の生命進化の歴史が、細胞の中に脈々と受け継がれ息づいており、無意識のうちにはるか遠い古代への郷愁の念を呼び起こしているからかも知れない。私は動物達と付き合うとき、かつて兄弟のような存在であったはるか遠い昔に、思いを巡らさないではいられない。

 パンちゃんとマーちゃんが死んでから、私は動物たちの“いのち”の重さは人間となんら変わるところがなく、小さないのちであっても、もっともっと大切にしてあげないといけないと強く感じるようになった。大脳が巨大に発達した人間は不思議な生き物だと思う。30数億年前の生命誕生以来、我々の遺伝子の中に内包されてきた無数の先祖たちの魂が、取り巻く環境や教育によって多様な人格として表象し、鬼にも仏にも変わり得るのが人間ではないだろうか。


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