徒然なるままに

あるがままを生きる

昭和30年代の思い出(鹿児島の山村)

 私のふるさとである鹿児島県の大隅半島は、海岸から荒々しい断崖が切り立っているところが多く、その切り立った断崖の上に台地が広がっている。さらにその台地の上にも垂直に切り立った岩肌をもつ山々が複雑に入り組んでいる。ここは数万年前まで活発に活動していた、錦江湾の出入り口付近を中心とする巨大な阿多カルデラの外輪に位置する。太古の激しい火山活動や地殻変動による隆起によってできたのが現在の大隅半島である。わが家はそのような大隅半島南部の山村(旧田代町)の谷間の一角にあった。空気がきれいで、冬になると満天の夜空に、無数の星がキラキラと輝いて見えた。天の川はもとより、オレンジ色にうっすらと漂っている星雲までもが、はっきりと手にとるように見えた。     

            

 私が生まれた家は、先祖代々住み継がれてきたと思われるような茅葺屋根の古い家であった。母家には、だだっ広い畳敷きの4つの部屋、その部屋の側面に設けられた広い縁、いろりがある板張りの広間、大きな竈(かまど)が置いてある土間兼台所があった。強い台風にも耐えるように家の作りは頑丈に出来ており、柱や梁が異様に太かった。いろりの煙が部屋に充満しないように、いろりがある広間の天井は筒抜けになっていたが、それでも柱や梁はいろりの煙で黒光りしていた。母家から離れたところには茅葺の牛小屋と隠居があり、その牛小屋の一角には五右衛門風呂と便所があった。幼い頃は、夜便所に行くのが怖かったのでよく親が付き添ってくれた。母家の土間にあった炊事場には、ご来客ならぬ背中がイボだらけのどす黒い体長15cm程の大きなカエルが現われることがあった。このカエルは何か縁起物のような扱いを受けており、背中に塩をかけてやると土産物でももらったかのようにノコノコとどこかに消えて行った。私はこのカエルを見ただけで身の毛がよだつ程怖くてたまらなかった。いまでもこのカエルに突然遭遇したりすると腰が抜けそうになる。

 私が子供の頃はまだカメラが普及していなかったので、私が写った写真は数枚しかなかった。1枚は、女の子のようなおかっぱ頭に、羽織を纏って父親に抱かれている。1枚は、継ぎはぎだらけのズボンを穿き、はにかんだ顔をして指を口元に当てて父親の足にしがみついている。五分刈りの髪、やせ細った体、汚れか地肌かわからないぐらい黒光りした顔に、ただ目だけが白く澄んでキラキラ輝いている。まさに難民の子供の写真そのものであった。これらの写真もいまではどこに行ったかわからない。

  母から聞いたところによると、私は2歳頃まで母のオッパイをねだっていたという。しかし、実際に吸わせてもらったかどうかまでは聞いていない。十分な栄養もとらずに、朝から晩まで働き尽くめの母から、5人の子供がオッパイを吸ってきたのだから、どんなにか大変だったろうと思う。それも原因したのか、母は年老いてから重度の骨粗鬆で歩けなくなり、今年(2014年1月)91歳で他界した。母は芯が強く気丈で働き者だった。3~4歳の頃だったろうか、母が点滴を受けながら寝ていたのをかすかに覚えている。物心ついてから聞いいたところによると、母は重度の腎臓病で死の淵をさまよっていたらしい。疲労と栄養不足が原因ではなかったかと想像する。昔は、たとえ重病であっても自宅で療養するのが普通であった。また、母は足をマムシに噛まれて、死の淵をさまよったこともあったらしい。

 私は高校生のとき、3軒隣の家に夕食に誘われたことがある。3軒隣といっても200~300m離れたところである。私が幼い頃、親に代わって子守をしてくれた女性が、嫁ぎ先から帰省しているのでぜひ会いたいというのである。もちろん私にこの女性のことがわかるわけがない。対面した女性(おばさん)はいろいろな思い出話をしてくれるのであるが、私は何をはなしてよいのかわからず、ただ恥ずかしそうにして黙っていた。農家の主婦は朝から夜遅くまで重労働だったので、よく隣近所の子供たちが互いに協力しながら子供の面倒を見ていた。

 農家は現金収入が少なかったから、物を買ってもらうのはお盆と正月だけだった。着るものは継ぎはぎだらけで、靴も爪先がワニの口のように開くまで穿いた。しかし、村の中ではこれが普通だったので、貧しいという実感はなかった。下着でも洋服でも買ってもらったときの喜びはひとしおで、そのときの感動は今でも忘れられない。特に正月に買ってもらった下駄の臭い(ヒノキの臭いだったと思う)は、はっきりと記憶に残っている。いまでもヒノキの臭いを嗅ぐと、正月に下駄を買ってもらったときのあの感激が蘇ってくる。臭いとは不思議な力をもっているものだと思う。竹馬、三輪車、水鉄砲、弓矢、飛行機、船、竹トンボ等、ほとんどの遊び道具は、鋸や金槌や小刀を片手にほとんど自分で作った。このおかげか、今でも手は比較的器用で、家回りのことや電化製品の修理等、ほとんど自分でやっている。逆に、物が豊富で子供に何でも買い与えることが、子供の成長の機会をいかに奪っていることか。今と比べると物質的にははるかに貧しかったが、周りもみんな同じだったので貧しいという実感はなかった。心はむしろ今より豊かだったと思う。

 村の行事も盛んに行われており楽しみだった。夏の夜になると六月堂といって、燈篭の木枠に、さまざまな絵や文字を書いた和紙を張りつけて、これを社寺に奉納していた。ろうそくの熱による空気の対流を使って、クルクルと回転するような工夫を施した燈篭もたくさん見られた。社寺ではこれを境内に張り渡した網に吊して灯を入れると、まるで遊園地にでも来たかのように華やかに見えた。また、焼酎で酔っぱらった観衆に囲まれながらの相撲大会も盛んだった。祝日になるとどこの家でも国旗を掲揚して祝い、正月になると、白いシラスを庭中に撒いて清め、競うように立派な門松を立てて新年を祝った。そして、自家製の餅や菓子を重箱に入れて親戚中をあいさつ回りして、おせち料理をいただく風習があった。まだまだ挙げれば数えればきりがないが、このようにその時々の祝い事を大切にしていた。しかし、このような風習や行事も、昭和40年代の初めあたりからだっただろうか、次第に見られなくなっていった。ちょうど経済成長と符号しているところをみると、物質的に豊かになり、先祖代々引き継いできた風習や行事に、やすらぎや楽しみを求めなくなっていったのかも知れない。共同体としての絆も次第に弱まっていった。経済成長は物質的には豊かな生活をもたらしたが、一方で心の貧困をもたらしてきたともいえるのではなかろうか。

 昭和30年代の後半になると、次第に洗濯機やテレビ等の家電製品が普及するようになってきた。我が家にテレビがやってきたのは、ちょうど東京オリンピックが開催された年(1964年(昭和39年))、私が中学1年のときだった。その2~3年前から村の中でも徐々にテレビを持つ家が多くなっていったが、それまでは、私が知る限り、村全体で3件の名士とお医者さんの家にしかなかった。人気番組があると、村中の子供達がそのお宅に駆け付けてテレビを見せてもらった。ちょうど夕飯時が多かったから、どんなに迷惑だったろうかと思うが、おおらかに快く迎えていただいた。

 家業は農家であったので比較的広い山林や農地を持っていたが、それでも戦後の農地改革によってかなりの農地を失ったらしい。5~6歳のころまでだったろうか、わが家と農地改革で土地を手にいれた地主との間に、不穏な空気が漂っていたのを子供心に肌で感じたことを覚えている。田畑には、鉄製のリングを周辺に打ち付けた木製の車輪が左右に2輪ついているもので、今では東南アジアの農村風景に見られるような牛車に乗って出掛けた。砂利道をガタガタゴトゴトと、のんびり走るときの振動がとても心地よかった。田畑は1時間以上もかかるところにあったので、よく道中で牛が後ろ脚を開き気味に、勢いよくウンコやシッコをしたものである。畑に着くと、近くの山であけびをとったり、グミをとったりして遊ぶのが楽しみだった。ある日、グミを食べ過ぎて便が出なくなり、大騒ぎしたことがあったらしい。しかし、小学生の頃になると、土曜、日曜はサツマイモや稲の収穫等の農作業を手伝わされるようになり、ほんとうにつらかった。サツマイモを収穫すると、白いデンプンが手に付いて黒く変色するが、石鹸で洗ってもなかなか落ちなかった。学校に行くとサツマイモのデンプンで真っ黒い手をした友達が大勢いた。   

                         田代町(現錦江町)


 家事の手伝いもよくやった。家の炊事場には、横2m、縦1m半程の大きな竈(かまど)が据え付けられており、左端にはご飯を炊く釜、中央にそれよりもやや大きな2つの釜、右端に直径が70~80cm位の家畜用の飯を炊く大きな釜が置いてあった。兄はご飯炊きや家畜の飯作りが日課になっていた。私は風呂を沸かすことが日課だった。今ではボタンを一つ押すだけで済むが、当時はポンプを手押しして水を入れ、自分で調達してきた薪を燃やして沸かしていた。薪に火をつけるのは結構たいへんで、何回やっても火がつかないときはイライラして悔し涙を流したりすることもあった。

 父母は休みもなく朝から晩まで、農作業で忙しかった。とくに母は、農作業に加えて炊事洗濯があったから、私は父母といっしょに遊んだという記憶がない。いつもせっせと働く両親の背中を見て育った。しかし、一家に子供が4,5人以上というのが普通だったので、遊び相手に不自由することはなく、よく友達と朝から晩まで野山や田んぼを駆け回って遊んだ。ずぶ濡れや泥んこになって帰るとよく母に怒られたものである。小学校に入学するまでは、幼稚園にも行かなかったので、よく両親といっしょに牛車に乗って田畑に出掛けた。

 農作業で出掛けた田んぼの脇には砂利道の県道が走っており、1日に2~3回濛々と土煙を上げながら走っていくバスを見送るのが楽しみだった。田んぼを駆けながら近づいて手を振ると、バスの中から笑顔で手を振ってくれたものである。小学校1年生のときだったと思うが、私は一度だけでもこのバスに乗ってみたいと思って、親に無理を言って10円もらい、わずかな距離をバスに乗って学校に通った。そして、とても美人のバスガールのお姉さんに初恋をしてしまった。それから何度かこのバスで通学したが、ドキドキしながら彼女を見上げながら傍に立っているだけだった。今頃あのお姉さんはどうしているのだろう。

                         錦江湾を望む


 小遣いをもらうという習慣がなかったから、おやつといえば決まって近くの畑で採ったサツマイモであった。しかし、これも毎日食べていると、さすがに飽きてくる。栄養失調状態でいつもお腹を空かしていたので、四季折々の山いちご、グミ、山芋、あけび、クルミなどの木の実などを取って食べるのが楽しみだった。肉も例外ではなかった。肉を食べるのは、祝い事のあるときだけでほとんど口にすることがなかった。そのため、よく川や山で釣りや狩りをやった。生きるための本能的な欲求から、自然とこれらのものに動物性タンパク質を求めていたのだろう。狩りの道具は、手作りのゴム製のパチンコや罠を使ったが、最もよく使ったのが先祖代々受け継がれてきた罠であった。おそらく縄文時代を遡る大昔から受け継がれてきたものではないかと想像する。もちろん、現在このような狩猟をやることは法律的に問題があると思うのでやらないほうがよい。我々は、あくまでも不足していた動物性タンパク質を得るために、本能的にやっていたのでお許しいただきたい。現在はゆとりのある豊かな生活をしているので、このような残酷なことをやっていた自分が信じられないが、当時は動物の苦しみを思いやるほどの情操や想像力が発達しておらず、ただ野性的な本能の赴くままに行動していた。今では、野鳥を見るたびに、すまないことをしたと懺悔の念でいっぱいである。

 犬猫はもとより、うさぎ、豚、牛、ヤギ、羊、ハト、すずめ、フクロウ、カラス等、様々な動物に囲まれて育った。正確には覚えていないが、カラスが我が家の仲間入りしたのは、私が小学校3~4年生の頃だったと思う。学校から帰ると家の門のところに、段ボールの中に真っ白い産毛のかわいらしい雛が入っているのを見つけた。友達が巣から捕ってきたものを、私にプレゼントしたものだった。カラスの子供だったので「クロ」と名付けた。毎日学校から帰ると、近くを流れている小川で小魚を釣って与えた。小魚の他、豆腐を細かく切って与えた。なぜ豆腐だったか覚えていない。餌を与えると、翼をバタつかせながら大きな口を開けて、ガオガオガウガウと鳴きながらよく食べた。

 やがて成長して飛ぶようになったが、野生のカラスと比べるとはるかに小さくひ弱に見えた。野生のカラスはカエルや蛇などの小動物を主食とするので、小魚と豆腐だけでは当然な結果であったが、子供であった当時は、そのようなことは全く考えもしなかった。今から思うと、自分の子供のことのように、ほんとうにかわいそうな子育てをしたものだと思う。このことが、半世紀以上経った今でもトラウマのように心の奥底に残っている。

 よく知られているように、カラスは非常に賢く人懐っこい。今では嫌われものであるが、飼ってみると犬猫と同じように愛らしい動物である。よく登校時には上空を飛んでついてきたり、学校から帰ってくるところを見つけると、遠くから飛んできて頭の上に止まった。また、カラスはいたずら好きである。家の中に入ってきてマッチ箱や線香箱を見つけては蓋をあけて、マッチ棒や線香を折り曲げるのが好きだった。それもすべて同じところからきれいに折っているのだ。あるとき、空気銃の弾がなくなっているので、探していると縁の下に隠していたことがあった。もしかすると、狩猟をしてはいけないということだったのか。これらの行動は、人の目から見ればいたずらであるが、彼らにしてみると遊びなのだろう。また犬猫を見つけると、後ろからこっそりと近づいておしりを突っついて逃げるという行動もよく見られた。これなど、明らかに人間の子供にもよく見られるいたずらだろう。

 飼い始めてから2年ほど経ってからだったろうか、クロはついに帰ってこなくなった。野生に無事に戻ったのであればよいが、人慣れしていたことが災いして事件に遭遇したのかもしれない。今でも、つがいで仲良く飛び交っているカラスを見ると、この頃を思い出しながら、「お腹空いてないカア 悪い人間に捕まるんじゃないぞ~」等とつぶやいている。他人はこれを変人と思うかもしれないが、少年時代のこのような背景があるのである。このカラスにしても、兄弟のようにかわいがっていた犬猫にしても別れがつらかった。

 私は動物たちにもいのちの危険に対する恐怖心だけでなく、喜怒哀楽や仲間に対する思いやりなど、人間と同じような感情をもっているのではないかと思われるような場面を幾度となく身近に観察してきた。これらの感情は、仲間と助け合って生きていくために必要な基本的な要素であり、動物たちこそこのような感情を仲間同士で素直に表現しているのではないだろうか。私は動物たちのいのちが人間のエゴにより、余りに粗末に扱われていることに心がいたむ。人間はもっと自然との共存を図るようにしないと、そのツケはやがて自分たちにまわってくると思う。われわれの周囲から動物がいなくなるとしたら、どんなに殺伐とした潤いのない社会になるだろう。

                七つの子

             烏 なぜ啼くの 烏は山に

             可愛い七つの 子があるからよ

             可愛 可愛と 烏は啼くの

             可愛 可愛と 啼くんだよ

             山の古巣へ 行つて見て御覧

             丸い眼をした いい子だよ

                   (野口雨情)

なんと情緒豊かなやさしい歌詞だろう。最近ではほとんど聞かれなくなってしまった。


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