徒然なるままに

あるがままを生きる

ことばの重み


子供の頃、国語が大嫌いだった。毎朝のように担任の国語教師から詩の暗唱をチェックされ、できないと竹刀で頭を殴られるという日常だったのが主な原因だったと思う。いまでは社会問題化する教師の暴力が日常的だった時代である。また、文章の解釈は人それぞれ、これに点数をつけるなどおかしなことだと思っていたことも国語が嫌いになった理由である。子供の頃からの反骨精神は生まれながらのものかもしれない。


しかし、特に子供にとって最もたいせつな科目は国語であると、老年期になったこの年になってつくづく思う。中でも“ことば”の使い方の大切さを教えることは重要だと思う。ことばこそ、人間を人間たらしめるものであり、人間社会の発展の基礎となるものだからである。例えば、ことばがなかったらラジオもテレビもインターネットも生まれる根拠がない。また、その使い方ひとつで平和にも争いごとにもなる。もちろん、最も大切なのはそれを使う人となりであることは言うまでもない。


ことばはその使い方によっては毒にも薬にもなり得る。無意識に何気なく口にしたことばがその人となりを表し、それが人生を狂わせてしまうこともある。よかれと思って発した何気ないことばが、相手を傷つけてしまうこともある。その顕著な例が、ことばを商売道具としている国会議員の失言である。アメリカの大統領トランプにいたっては、相手の尊厳を無視した高圧的なことばにより、他国を恐怖に貶めて譲歩を迫るという、危険極まりない行為を続けている。人として絶対にやってはいけないやり方を、あろうことかアメリカの大統領が平然とやってのけているのである。数々のトランプの異常さに、多くのアメリカ人が目をつむっている。かつて人類が歩んできた激動の歴史を再現しているように感じる今日この頃である。これからの行く末が心配でならない。このように、ことばはその使い方を間違えると、個々の人間関係どころか国際関係にまで大きな影響を及ぼすことになる。


一方で、ことばはこころ豊かな人生を送る道具にもなり得るものだと思う。歌詞や詩などに涙し、なぐさめられる。勇気や感動ももらう。また、豊かな感性や情緒を育むこともできる。いまさらながら、作家や詩人へのあこがれも込めて芯からそう思う。ことばの使い方の教育、そしてそれを扱う人間教育が大切と思う。このことが、こころ豊かな社会をつくる基礎になると思う。


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