人間と動物
先日、部屋に入るとびっくり仰天!鳥の羽毛が散らかっていた。そしてシジュウカラの死骸・・・ 外傷はまったく見当たらない。恐らくショック死だったのだろう。犯人は?愛猫ララのいたずらである。このときばかりは、ララのお尻をひっぱたいてやった。いのちを救った猫が、か弱い小鳥のいのちを奪うという皮肉な結果になってしまった。
しかし、冷静に考えると弱肉強食の動物の世界では、相対的に弱い動物を襲うことは当たり前のことである。人間もその例外ではない。人と動物をいっしょにすることに批判があるかもしれないが、人間が犬や猫、もっと身近にはゴリラやチンパンジーと共通の祖先を持つ同じ仲間であることに疑いの余地はない。この地球上で、決して人間だけが特別な存在ではないのである。そして人間こそ、弱肉強食の頂点に位置する動物である。
私は子供の頃、野山で野生の小鳥や動物を見かけると、追いかけたり罠で捕えて食料にしたりしていた。戦後の貧しさそのままの鹿児島の貧しい山村で、肉が不足していたこともあるが、楽しい遊びのひとつでもあった。今の自分とは別人のような人間がそこにはいた。こうした子供時代の数々の悪行の罪を背負いながら、人間としてここまで成長してきた。しかし、情緒や社会性が発達していない幼少期は、誰しもこれに似たような動物的行動がみられるのではないだろうか。動くものを追いかける、追いかけっこや取っ組み合いをする、トンボやカエルなどの小動物を捕まえてはいたずらをする、といった幼少期の行動もその一つである。
やがて、様々な経験を積み、情緒を育み、学びながら成長していく。そしてある時点から、突然のように大好きだった釣りすらやらなくなった。できなくなったといったほうがよいかもしれない。50代になってからである。ある動物を飼ったことをきっかけにして、基本的には他の動物も人間と何ら変わらないという確信を持つようになったからである。また、子供時代にふれあった様々な動物たちへの複雑な思いが無意識のうちに昇華され、壮年期になってこのような心の変化として表れてきたのかもしれない。
かつて「人のいのちは地球よりも重い」と言った人がいた。しかし、これほど空しく響くことばもない。現実と余りにかけ離れている。国内における日常化する凶悪事件、世界を見渡せば目や耳をふさぎたくなるような余りに残虐な事件が多い。善良な人も戦争になれば簡単に敵を殺めてしまう。人間は心の奥底にこのような残虐性を秘めているのではないかと思わずにはおれない。無慈悲に動物を虐待したり殺したりするのはその一面を表しているのではないだろうか。そして、人への虐待や殺人はその延長線上にある行為ではないかと思うのである。
人は動物に対して、共感が得られない限り物として扱ってしまう。動物のいのちと人間のいのちをいっしょに論ずることはタブー視される。動物保護を訴えると“動物愛護者“として一般人と区別される。ときに差別の意味を込めてそう呼ばれる。また、動物の不幸に同情すると、”感情移入だ“などとして特別視されてしまうこともよくある。これらは、すべて人間のご都合主義の身勝手さからくるものである。最近では動物保護の活動や法的な整備も進んでいるが、まだまだ社会における立場は弱い。
私は、人間社会のこころのゆとりや豊かさを表すバロメーターのひとつが、動物に対するやさしさだと思っている。それは同時に人に対するやさしさでもある。その点で、現実は理想には程遠い。とりとめのないことをダラダラと書いてしまったが、どうすれば動物に対してもっと思いやりのあるやさしい社会になれるのか、これといった解決策が思い当たらないのである。永遠の課題なのかも知れない。
人間が生きていくためには動物性たんぱく質が必須である。しかし、それは尊い動物たちのいのちを犠牲にしての賜物である。これに依存しないで生きていくほど人間はまだ進化していない。であれば、せめて食事は感謝の気持ちを込めていただきたい。そして、食べ物は決して無駄にしてはいけない。さらに、動物達のいのちを大切にしてあげたい。それが人のいのちを大切にすることにも繋がると思うのである。
おわり
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