徒然なるままに

あるがままを生きる

私の体験した昭和から平成の社会の変化、そして未来のために


昭和の高度成長時代、そして成熟した豊かな平成の時代を得て、いま新たな時代を迎えようとしている。科学技術においてもスタンドアローンのハードウエア中心の時代から、インターネットを核としてさまざまな技術が融合したソフトウエア中心の時代へと移行し、さらにその技術は留まるところを知らない。それに伴い、人々の暮らしや社会も大きく変容してきた。この半世紀、まさに産業革命ともいえるような変革の時代を生きてきたと思う。



私は昭和26年、鹿児島の大隅半島南部の片田舎の農村に生まれた。いまから思うに鹿児島でも貧しい辺境の地だったと思う。私が生まれた家は、ちょうどNHKの大河ドラマの“西郷どん”に出てくる藁葺屋根の家に似た古い家だった。薩摩半島から錦江湾を渡って大隅半島に移住してきた先祖が、明治維新の頃に建てた家だろうと想像する。


子供の頃はまだカメラが普及していなかったので、私が写った写真は数枚しかなかった。1枚は、女の子のようなおかっぱ頭に、羽織を纏って父親に抱かれている。1枚は、継ぎはぎだらけのズボンを穿き、はにかんだ顔をして指を口元に当てて父親の足にしがみついている。五分刈りの髪、やせ細った体、汚れか地肌かわからないぐらい黒光りした顔に、ただ目だけが白く澄んでキラキラ輝いている。まさに難民の子供の写真そのものであった。これらの写真もいまではどこに行ったかわからない。


農家は現金収入が少なかったから、物を買ってもらうのはお盆と正月だけだった。着るものは継ぎはぎだらけで、靴も爪先がワニの口のように開くまで穿いた。しかし、村の中ではこれが普通だったので、貧しいという実感はなかった。下着でも洋服でも買ってもらったときの喜びはひとしおで、そのときの感動は今でも忘れられない。特に正月に買ってもらった下駄の臭い(ヒノキの臭いだったと思う)は、はっきりと記憶に残っている。いまでもヒノキの臭いを嗅ぐと、正月に下駄を買ってもらったときのあの感激が蘇ってくる。臭いとは不思議な力をもっているものだと思う。竹馬、三輪車、水鉄砲、弓矢、飛行機、船、竹トンボ等、ほとんどの遊び道具は、鋸や金槌や小刀を片手にほとんど自分で作った。


村の行事も盛んに行われており楽しみだった。夏の夜になると六月堂といって、燈篭の木枠に、さまざまな絵や文字を書いた和紙を張りつけて、これを社寺に奉納していた。また、焼酎で酔っぱらった観衆に囲まれながらの相撲大会も盛んだった。祝日になるとどこの家でも国旗を掲揚して祝い、正月になると、白いシラスを庭中に撒いて清め、競うように立派な門松を立てて新年を祝った。そして、自家製の餅や菓子を重箱に入れて親戚中をあいさつ回りして、おせち料理をいただく風習があった。まだまだ挙げれば数えればきりがないが、このようにその時々の祝い事を大切にしていた。


農作業の手伝いもよくやった。小学生の頃になると、土、日はサツマイモや稲の収穫等の農作業を手伝わされるようになり、ほんとうにつらかった。サツマイモを収穫すると、白いデンプンが手に付いて黒く変色するが、石鹸で洗ってもなかなか落ちなかった。学校に行くとサツマイモのデンプンで真っ黒い手をした友達が大勢いた。


父母は休みもなく朝から晩まで、農作業で忙しかった。とくに母は、農作業に加えて炊事洗濯があったから、私は父母といっしょに遊んだという記憶がない。いつもせっせと働く両親の背中を見て育った。しかし、一家に子供が4,5人以上というのが普通だったので、遊び相手に不自由することはなく、よく友達と朝から晩まで野山や田んぼを駆け回って遊んだ。ずぶ濡れや泥んこになって帰るとよく母に怒られたものである。小学校に入学するまでは、幼稚園にも行かなかったので、よく両親といっしょに牛車に乗って田畑に出掛けた。


小遣いをもらうという習慣がなかったから、おやつといえば決まって近くの畑で採ったサツマイモであった。しかし、これも毎日食べていると、さすがに飽きてくる。栄養失調状態でいつもお腹を空かしていたので、四季折々の山いちご、グミ、山芋、あけび、クルミなどの木の実などを取って食べるのが楽しみだった。肉も例外ではなかった。肉を食べるのは、祝い事のあるときだけでほとんど口にすることがなかった。そのため、よく川や山で釣りや狩りをやった。生きるための本能的な欲求から、自然とこれらのものに動物性タンパク質を求めていたのだろう。



以上、私の少年時代の暮らしぶりを振り返ってみたが、貧しく、とてもつらかったように感じられるかも知れない。しかし、村全体では平均的な暮らしぶりだったので貧しいとかつらいという実感は全くなく、むしろ活気があって楽しかった。また、事件らいし事件はほとんどなく平和だった。それを支えていたのは、子供であっても勤労を通じて家族で助け合う心、物を大切にする心、隣近所や村社会における温かい絆だった。また、外部からの情報が少なく、都会生活へのあこがれがなかったことも幸いしていたかもしれない。これらはすべて現代社会が失いつつあるものである。


そして、昭和30年代の後半になると、次第に洗濯機やテレビ等の家電製品が普及するようになってきた。我が家にテレビがやってきたのは、ちょうど東京オリンピックが開催された年(1964年(昭和39年))、私が中学1年のときだった。その2~3年前から村の中でも徐々にテレビを持つ家が多くなっていった。それと符合するように、村のさまざまな風習や行事も、昭和40年代の初めあたりからだっただろうか、次第に見られなくなっていった。また、子供たちが外で遊ぶ姿もあまり見かけなくなっていった。物質的に豊かになり、先祖代々引き継いできた風習や行事に、やすらぎや楽しみを求めなくなっていったのかもしれない。共同体としての絆も次第に弱まっていった。


平成になりインターネットが出現すると、人と人とのかかわり方に大きな変化が生じてきた。生の触れ合いなく、電波を通じて世界中の不特定多数と気軽にコミュニケーションできるようになったのである。さらに、地方の過疎化と大都市への人口の集中化により核家族化が進み、人間関係がさらに希薄化していった。また社会が豊かになる一方で、経済的な格差が拡がっていった。



かくして、昭和後期から平成にかけて、経済的には豊かになってきたが、心の充足感が足りない殺伐とした世の中になってきた。親元でアルバイトをしながら、気楽に暮らす若者が多くなってきた。ゆとり教育が叫ばれる中で、子供たちの学力は低下してきた。また、子供たちにとって心の支柱となるべき学校の教師の威信は失墜してきた。経済的に豊かになる一方で、若者の心の空白感は拡がるばかりではないだろうか。それを埋めるのがスマホや反社会的行為では日本の将来はない。心の空白は、目標やこころざしを立てて精進することによって埋めるべきものだと思う。


とはいえ、わたしが体験した昭和の貧しくとも平和な社会に戻るわけにもいかない。複雑で難しい問題だと思うが、学校教育に最も大きな解決の糸口があるように思う。道徳教育の見直しである。どんな環境に置かれても立派に育つ人は多い。子供がどのように育つかは、先祖から受け継いだ遺伝子の影響が最も大きいと思う。一方、多くの人間は生まれながらの気質や性格によって、放任しておけば、社会にとって好ましくない方向に育っていく。それを矯正し、社会にとって有益な人間に育てるためには、優れた道徳教育が欠かせないと思う。家庭でのしつけもしかりである。


道徳教育の中で最も大切なことは、”勤勉で精進する心”を育てることだと思う。豊かで平和な社会を築く基礎だからである。つぎに”誠実な心”を育てることである。人間同士の信頼関係こそが物事を進めるための基本だと思うからである。道徳教育こそが日本の未来を左右する。


参考:「昭和30年代の思い出(鹿児島の山村)」




おわり

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