日常化する凶悪事件
平成の時代はインターネットを中心とする歴史に残る技術革新の時代であった。それと同時に、ネット詐欺など新種の犯罪も数多く生まれてきた。しかし、私が最も注目する平成時代の社会現象は、昭和時代には稀にしか起こらなかったような子殺し、無差別殺人といった凶悪事件が日常化してきたことである。
人々の行動は、規則や社会の不文律(暗黙のルール)によって規制され、社会の秩序が保たれている。この不文律は、家族や地域社会における人間的なつながりによって築かれていく。私が子供の頃は、祭りや農作業など隣近所、村中で協力し合って活気づいていた。隣近所とも家族のような付き合いをしていた。おかげで、誰もが顔見りで悪いことなどできなかった。
しかし、1964年の東京オリンピックのあたりからテレビが普及し始め、地域社会の繋がりに少しづつ変化が出始めた。まず、村の祭りが少なくなり、子供たちが外で遊ばなくなってしまった。そして、平成になりインターネットが出現すると、人と人とのかかわり方に大きな変化が生じてきた。生の触れ合いなく、電波を通じて世界中の不特定多数と気軽にコミュニケーションできるようになったのである。さらに、地方の過疎化と大都市への人口の集中化により核家族化が進み、人間関係がさらに希薄化していった。また社会が豊かになる一方で、経済的な格差が拡がっていった。このような中で、社会に適応できない孤立化した人間が増加し、様々な形で社会に悪影響を及ぼしていることは想像に難くない。
そして、子殺しや無差別殺人といった、信じられないような事件が多発する。しかし、孤立したすべての人間がそのような事件を起こすかというとそうではない。その人なりの本性が、上述したような社会を背景として顕在化したものと考えるべきだろう。中には人間の本性に根差しているような事件もある。例えば子殺しの多くは、他の霊長類でも見られるような性の問題がからんでいるという(注1)。性の問題とは、例えばゴリラやチンパンジーに見られるオスのメスに対する強い占有志向に類似したものである。とすると、子殺しは単なる特異な事件として片付けることはできないのではないかと思う。
社会は益々複雑化していく。このままでは、凶悪事件は増加していく一方だろう。このような中で、よりよい社会を築くためには、第一に地域社会や隣近所と温かい人間関係を築いていくことが大切ではないだろうか。もう一度活気ある地方の時代を取り戻すことも解決に繋がるかも知れない。また、事件の当事者に若者が多いところを見ると、昭和の後期から平成にかけての子供の教育に大きな問題が潜んでいるのかも知れない。
注1:山極寿一:「暴力はどこからきたか-人間性の起源を探る」
0コメント