徒然なるままに

あるがままを生きる

“西郷どん”に見る薩摩と昭和の鹿児島



わがふるさと鹿児島が舞台の大河ドラマ“西郷どん”を毎週楽しみながら視聴している。舞台設定や鹿児島弁など、かなり忠実に再現しているように思う。昭和30年といえば、このドラマが設定している時代から100年近く経っているというのに、私が幼年時代を過ごした昭和30年前後までの鹿児島の片田舎での暮らしぶりとよく似た場面が多いのに驚かされる。明治維新以降、政治・経済・文化などの近代化が進められていったが、昭和30年前後までの庶民の暮らしぶりは、明治維新の頃とそれほど変わらなかったのではないだろうか。特に地方の近代化は遅れていた。私がこのブログで紹介した「昭和30年代の思い出」と一部重複するところがあるが、”西郷どん”の時代を連想させるような生活ぶりや伝統が息づいていた鹿児島の少年時代について述べてみたい。




暮し

 “西郷どん“を視てまず驚いたのが、当時の庶民の貧しい暮らしぶりである。薩摩藩の武士の割合は30%だったというから、農民は年貢の取り立てに苦しんだのだろう。私は自分のルーツについて細かくは知らないが、先祖は薩摩藩の主要領地である薩摩半島から錦江湾を渡って、今の大隅半島の山奥(旧田代町)に移り住んできたという話を父から聞いたことがある。移住する前は島津家とのつながりがあったらしい。大隅半島に移住したのは、墓石の数や年代から想像するに明治維新前後の頃ではないかと思う。かなりの大地主であったと聞いたので、何らかのトラブルに巻き込まれて、大金を手に新天地を求めて薩摩半島から逃れてきたのだろう。”西郷どん“に視る当時の藩内の混乱ぶりから、いまは亡き父から聞いた話を思い出した次第である。


 

私の生家は、先祖代々住み継がれてきたと思われるような茅葺屋根の古い家であった。“西郷どん“に出てくる西郷隆盛の生家によく似ていた。母家には、だだっ広い畳敷きの4部屋、その部屋の側面に設けられた広い縁、いろりがある板張りの広間、大きな竈(かまど)が置いてある土間兼台所があった。強い台風にも耐えるように家の作りは頑丈に出来ており、柱や梁が異様に太かった。いろりの煙が部屋に充満しないように、いろりがある広間の天井は筒抜けになっていたが、それでも柱や梁はいろりの煙で黒光りしていた。母家から離れたところには茅葺の牛小屋と隠居があり、その牛小屋の一角には五右衛門風呂と便所があった。幼い頃は、夜便所に行くのが怖かったのでよく親が付き添ってくれた。母家の土間にあった炊事場には、ご来客ならぬ背中がイボだらけのどす黒い体長15cm程の大きなカエルが現われることがあった。このカエルは何か縁起物のような扱いを受けており、背中に塩をかけてやると土産物でももらったかのようにノコノコとどこかに消えて行った。


家業は農家であったので比較的広い山林や農地を持っていたが、それでも戦後の農地改革によってかなりの農地を失ったらしい。5~6歳のころまでだったろうか、わが家と農地改革で土地を手にいれた地主との間に、不穏な空気が漂っていたのを子供心に肌で感じたことを覚えている。田畑には、鉄製のリングを周辺に打ち付けた木製の車輪が左右に2輪ついているもので、今では東南アジアの農村風景に見られるような牛車に乗って出掛けた。砂利道をガタガタゴトゴトと、のんびり走るときの振動がとても心地よかった。田畑は1時間以上もかかるところにあったので、よく道中で牛が後ろ脚を開き気味に、勢いよくウンコやシッコをしたものである。今では田畑を耕すのは耕運機であるが、昭和30年前後までは牛に牛鍬を惹かせて耕すのが一般的だった(“西郷どん“にも全く同じようにして田んぼを耕している風景が出ていた)。


小遣いをもらうという習慣がなかったから、おやつといえば決まって近くの畑で採ったサツマイモであった。しかし、これも毎日食べていると、さすがに飽きてくる。栄養失調状態でいつもお腹を空かしていたので、四季折々の山いちご、グミ、山芋、あけび、クルミなどの木の実などを取って食べるのが楽しみだった。肉も例外ではなかった。肉を食べるのは、祝い事のあるときだけでほとんど口にすることがなかった。そのため、よく川や山で釣りや狩りをやった。生きるための本能的な欲求から、自然とこれらのものに動物性タンパク質を求めていたのだろう。


しつけ

私の高校時代の寮生活は、刑務所とも軍隊とも勘違いするような厳しい規律や上下関係が貫かれていた。少なくとも私が高校を卒業する昭和40年代中頃まで、このような厳しいしきたりが脈々と受け継がれていた(「青春時代の思い出_第1編」)。質実剛健の鹿児島県人の気質は、貧しい混乱の時代を生き抜いていくために醸成されてきたのだろう。このような厳しいしつけを必要としない平和で穏やかな社会が望ましいと思う。日本が高度成長を遂げ、社会が豊かになってきた昭和40年代後半になると、母校の寮の厳しい規則もなくなっていったと聞いている。私の世代が最後の生き証人となったわけである。


誤解されている男尊女卑

鹿児島は昔から男尊女卑の県として悪名?高い。しかし、それは他県の人が作った鹿児島県人のイメージであって、決して男性が女性を虐げているような風土ではないことは自信を持って言える。実態はむしろ逆ではないかと思う。鹿児島出身の日本海軍の父、山本権兵衛(1852 – 1933)は有名なフェミニストであった。西郷隆盛も家族思いの優しい人であった。身近なところでは、私の父も仏のように優しかった。母はいつもそれを自慢していた。では、なぜ男尊女卑というようなマイナスのイメージが作られたのであろうか。女性が積極的に社会で活躍できない時代にあって、女性は健気に男性を裏で支えることに徹していたからだろうと思う。しっかりした芯の強い鹿児島の女性が、裏でしっかりと支えていたからこそ男性が活躍できたのである。



明治維新までの時代に見られるような国内での血生臭い争いがなくなったのは、社会の制度が近代化され、生活が豊かになってきたおかげだと思う。一方で、現代は物で溢れ、人とのつながりが希薄化するなど、精神的には混迷の時代にあるのではないだろうか。すべてがよかったとは言えないが、私が少年時代まで過ごした鹿児島の社会に、今の時代をより良く生きるヒントが隠されているのかも知れない。

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