人のいのちと自然の営み
ブログを書き始めてちょうど2年になった。特に目的や使命感があって書いているわけではない。敢えて言うなら自分のため、記録や日記のつもりで書いている。その中で共感していただく読者があって少しでも社会の役に立てばよいと思っている。ブログを書いているおかげで、様々なことを考える機会が多くなった。テーマを見つけ思考を巡らし整理し、そして文章として表現するというプロセスがとても楽しく勉強にもなる。非才を顧みず、人間として社会人として最も大切なことばの重みをかみしめながらブログと向き合っている。
そして今回は、とても重たく深遠な“生と死”について考えてみたい。これについては、古代から現代にいたるまで多くの宗教家や哲学者によって様々な思想が展開されてきた。私はこの分野については関心が薄く、そのような先人たちの思想について語る知識を持ち合わせていない。しかし、“生と死”は誰でも避けて通れないテーマであり、タブー視すべきではないと思う。死について考えることは、同時に生き方について考えることにもつながる。以下、簡単に私なりの考えを述べてみたい。
人を含むあらゆる生物は種の保存、維持、利益、繁栄のために行動する。そのために生物は進化を遂げながら、その過程を遺伝子という形で記憶してきた。その手段のひとつが生殖である。生物は交配により子孫を残し、古くなった世代を新しい世代に置き換えながら進化していく。個体の死は、子孫に遺伝子という形でその命を引き渡し、より強い種を残していくための自然によって仕組まれた宿命である。この冷徹な自然の営みをはっきりと見せてくれるのが鮭の一生である。鮭はふるさとの川を遡上し、子孫を残した直後に儚くも死んでいく。しかし、個体の遺伝子の一部が子孫に受け継がれ、次の世代に命を繋いでいくという意味では命は不滅といってよい。また、個体は無数の先祖たちの生まれ変わりであるということもできる。厳粛な人の生と死も、他の動植物と同じく、冷徹な自然の営みの一つに過ぎない。
しかし、死後にこころがどうなるかについては、確たる科学的な検証はなされていないと思う。そこに様々な死生観が展開されるわけであるが、それによってこころが癒されるのであれば何が正しいかどうかという議論はあまり意味がない。他人を傷つけない限り、人それぞれの考え方があってよいと思う。私は、脳の死と同時にこころも消滅すると考える。こころは脳によって生み出される機能の一つだからである。この考え方に立つ限り、死後の世界は存在し得ない。もし、死後の世界があるとすれば脳の存在意義が問われてしまう。したがって、死とは何らの苦楽の感情も存在しない完全なる無の世界である。このような考え方は、現代科学の常識の範囲で最も合理的な考え方だと思う。(“虎の威を借る”ではないが、以上私が述べたような考え方は、解剖学者の養老孟子氏が「唯脳論」の著書で述べておられる考え方と軌を一にする。)
最後に臨死体験について簡単にふれておきたい。臨死体験は、死の淵から生還した人の多くが垣間見る不思議な意識体験である。臨死体験の解釈として「脳内現象説」「心理的逃避説」等さまざまな説がある。かつて、ジャーナリストの立花隆氏が、臨死体験について世界の研究者を訪ねながら、最新の研究成果を紹介していく様子をまとめた、「シリーズ 死ぬとき心はどうなるのか 立花隆“臨死体験"を追う」がNHKのBS1で放送された。番組では、臨死体験が、最新の脳科学の研究により、脳の働きで説明ができるとした。細かい説明は省くが、科学的な説明としてたいへん説得力のある内容だったと思う。しかし、脳の働きによって説明できない臨死体験の事例もあるという。いまはわからないとしか言いようがない。
こころの問題まで科学的に考えると、夢や情緒のない味気ないものに感じられるかも知れない。しかし、根拠のない怪しい思想に洗脳され、善良な人々が被害を被るよりはましだろう。残された科学のフロンティア領域であるこころの世界も、やがて科学的に説明できる時代がやってくることは間違いないと思う。とはいえ宗教的思想からいまだに進化論を否定する人々も大勢いるというから、こころの問題は複雑である。
さてこの記事を読んでいただいた方は、いつやってくるかも知れない死について考えたことがあるでしょうか。誰しも、終末に際してなるべく遺族に迷惑をかけたくないと思っておられると思います。私は、健康保険証といっしょに、「回復不能、意識不明の場合、苦痛除去を除き延命治療は辞退します。」というメモ書きを署名付きで残しています。
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