徒然なるままに

あるがままを生きる

幸せについて


若人や多忙な毎日を送っている人に、「幸せとは」と問いかけても関心を示す人はほとんどいないかも知れない。筆者自身、無我夢中で夢を追い求めた青春時代、そして結婚して家庭を持ち、波乱万丈のサラリーマン時代、「幸せとは」などと呑気なことを考える余裕などなかった。


しかし、定年を過ぎて心に余裕が出たいま、父親失格の自分を反省しながら、「幸せとはなにか」について考えることが多い。子供のころから、この命題について考えたり議論したりする機会があれば、人としてもっと有意義な人生を送ることができたのではないかと思うことがある。


何を幸せとするかは個々人の価値感に依拠するので、それぞれ自分で考えるべき問題だと思う。しかし、人生の歩みそのものを幸せ追求の営みだとすれば、その過程には予測し得ない多くの不幸が待ち構えていることが多々ある。例えば、最近では企業のトップまで上り詰めた後、不祥事により転落というような例が目立つ。また、事業に成功し恵まれた生活を送っていたが、やがて事業失敗により夜逃げを余儀なくされてしまったというような例もよく聞く。このように、地位や名誉や富があっても、不幸な人生を送る人は少なくない。逆に、地位や名誉や富はなくても、いかにも幸せそうな生活を送っている人も多い。


そこで哲人たちによる、どのような生き方が幸せなのかという「幸福論」なるものが注目をされることになる。最近では、アインシュタインが帝国ホテルに滞在した際、日本人の配達人にチップ代わりに手渡したメモが話題になった。「静かで質素な生活は、不安に襲われながら成功を追求するよりも多くの喜びをもたらす」と書かれていたという。「アインシュタインも人間らしい一面があったんだ。20世紀最大の物理学者といわれたアインシュタインも、その功績の裏ではたいへんな苦労があったに違いない。」などというようなことしか、このメモの内容からは伝わってこない。アインシュタインがどれほど熟慮してこのメモを残したかはわからない。これを「アインシュタインの幸福論」と呼ぶのは多少大袈裟な感じがする。いずれにしても、人間らしい生活を求めていたことだけは間違いない。


人は社会との健全なつながりなくして幸せはありえない。人は社会から孤立して孤独には生きられないからである。少なくとも、反社会的な生き方をしないことが幸せの最低の条件だと思う。広義の社会的貢献は幸福度を高める。「広義の社会的貢献」とは、勤勉、誠実、やさしさといった生き方により、間接的に社会を明るくし他人に好ましい影響を与えるような生き方を含む意味である。


若い頃は、自分の夢を追い求めて必死に頑張るのも幸せのひとつかも知れない。しかし、やがて結婚し、家庭をもつとそうはいかない。幸せを語るとき他者の幸せ、とりわけ最も身近な存在である家族の幸せを抜きにして考えることはできない。家族の幸せを疎外するような生き方をすると、年老いて人生を振り返ったときに後悔することになる。筆者自身、長い年月、家庭を顧みず自分の夢を追い求めて必死に頑張っていた時期があった。そのときは家族のためと自分に言い聞かせていた。しかし、家族はそうは思っていなかったのである。家族を犠牲にして夢を追い求めたのである。気付くのが遅過ぎた。無我夢中で働いている働き盛りの男性諸氏には、このような事例が多いのではないだろうか。立ち止まって、幸せについてじっくり考えると、また別のすばらしい生き方が見えてくるかも知れない。


筆者は他人と比較せず、質素倹約な生き方をするように努めている。欲を出せばきりがない。他人を羨むとそのことが自分を不幸にする。しかし、今の生活に感謝し満足すれば幸せになれる。私が生まれたのは戦後間もない貧しい時代であった。しかも、鹿児島の片田舎の貧しい農村であったので、物質的には今とは比べものにならないほど貧しかった。しかし、質素ながらも村の連帯感は強く、にぎやかで明るく幸せだった。比べて、現在は衣食住足り、すべてが贅沢三昧に恵まれている。今では、筆者が子供の頃、1年に数回しか食べられなかったようなごちそうの毎日である。だから、私はご飯を食べるとき、「ありがとう」、「おいしい」を連発しながら食べる。自然に感謝のことばが出てくる。しかし、今の生活は幸せには違いないが、あの貧しかった子供時代のほうがもっと幸せだったかも知れない。



心の持ちようによって、どんな人も幸せになれると思う。現代のような複雑な社会にあってはなおさら、時流に流されることなくしっかりとした自分の考えをもつことが幸せをつかむための必要不可欠な条件でもあると思う。また、反社会的な生き方をしない、誠実、勤勉といった社会的な生き方することも幸せになるための必要不可欠な条件である。幸せは、地位、名誉、富とは無関係に、すべての人に平等に与えられた権利である。


さて、この記事を読んでいただいた皆さんは、「幸せ」についてどのようにお考えでしょうか。筆者のように失われた過去は取り戻せません。しかし、よりよき未来は築けるのです。いちど「幸せ」についてじっくり考えてみるのもよいと思います。

世界中の人々がこの命題について真面目に考える習慣を身につければ、最も不合理で残虐な戦争もこの世からなくなるかも知れません。

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