徒然なるままに

あるがままを生きる

テレビの普及と暮らしの変化


今回は“科学技術の歴史と未来”の第3回目。

今回は趣を変えて、個人的なエピソード中心のテレビのはなし。


まずは、テレビの歴史について簡単にふれておきたい。

テレビの歴史を語るときこの偉人を抜きには語れない。“テレビの父”といわれる“高柳健次郎”である。

1926年、“高柳健次郎”は撮影した画像をブラウン管に映像を映し出すことに世界で初めて成功した。


高柳健次郎(1899-1990)


ところで、私は今から40年以上も昔、思いがけなく高柳健次郎氏にお会いしたことがある。東京工業大学に入学した1973年4月、電気電子系の入学祝賀会が開催されたときのことだった。その祝賀会の席で、私は物静かで優しい眼差しをした老翁の隣に座った。鹿児島の工業高校を卒業して社会人となり、高度成長時代を底辺で支えながら苦学して大学に入学するまでのはなしをしたことをかすかに覚えている。誰にも話したことのない苦労話を、父親のような老翁に切々と語って自らを慰めたのかもしれない。すると老翁は黙ってやさしく幾度も頷いてくれた。祝賀会も終わりに近づいた頃、先輩が水戸黄門の印籠ならぬ指先で私の背中を突っつきながら耳元でひそひそとささやいた。

「君の横に座っておられるのは高柳健次郎さんだぞ!」

私は驚くこともなくただポカンとしていた。世間知らずの田舎者だった私はそれまで“高柳健次郎”を知らなかった。青二才の若造が歴史的な偉人に初対面から馴れ馴れしくしてしまったのだ。銭湯も3、4日に一度しか通うことができなかった貧乏学生だった私は、あのときどのような身なりをしていただろうか、生意気なことを言わなかっただろうかなどと、いまさらながら若気の至りを案じている。私には高柳健次郎氏の、近寄り難い偉人とは無縁の物静かで温厚な老翁のイメージが強く印象に残っている。

大学に合格する直前まで、明日のわが身はどうなるかもわからないどん底生活を送っていた若者が、いきなり歴史的な偉人と会話を交わすのだから人生とは不可思議なものである。今に人気が続く多くの歌手が、長い下積み生活を乗り越えて一躍大スターになり、演歌・歌謡の全盛時代を築いたのも昭和40年代だった。高度成長時代の真っ只中、多くの若者がこころざしを胸に地方から大都会に上り、それぞれの道で夢を実現するために必死に頑張っていた。(関連記事:青春時代の思い出


さて、1930年代になると世界各国でテレビの開発競争に拍車がかかる。日本も1940年の東京オリンピックのテレビ中継を目指して開発を進めたが、第2次世界大戦勃発のため開発は中止された。


敗戦後のさまざまな制約の中での高柳健次郎氏を中心とする懸命の尽力あって、1950年(昭和25年)NHKがテレビ実験放送開始した。そして、1953年2月、NHKがテレビ本放送を開始し、シャープが我が国初のテレビ受像機の量産を開始した。量産第1号機(TV3-14T)は14インチで価格は当時のほぼ平均年収の175,000円だった。


     シャープのTV3-14T


1956年12月には、NHKが日本で初めてのカラーテレビ実験局を開局し、実験放送を行った。そして、1960年(昭和35年)に東芝から日本初の国産カラーテレビ21型D-WE(約50万円)が販売される。さらに、同年9月、NHK、日本テレビ等8社によってカラーテレビ放送が開始された。


      東芝のカラーテレビ21型D-WE


1964年(昭和39年)の東京オリンピックは、日本の放送技術の高さを世界に示したイベントとなった。東京オリンピックを契機として、カラーテレビの販売台数も急速に増えていった。


表1:テレビの世帯普及率(総務省「平成26年版 情報通信白書」より引用)


我が家に白黒テレビがやってきたのは、ちょうど東京オリンピックが開催された年の1964年、私が中学1年のときだった。その1~2年前から村の中でも徐々にテレビを持つ家が多くなっていったが、それまではお医者さん等の金持ち数件しかなかった。表1を見るとわかるように1960年の全国のテレビの世帯普及率はほぼ50%に達しているのに対して、私の村は2~3%に過ぎなかった。現金収入の少ない貧しい農村だったこともあってテレビの普及がかなり遅れていた。テレビが一般に普及するまでは、人気番組があると村中の子供達がテレビのあるお宅に駆け付け、大勢の友人達といっしょに玄関先から身を乗り出して食い入るようにテレビを視たことを覚えている。ちょうど夕飯時が多かったから、どんなに迷惑だったろうかと思うが、いつも玄関の戸を開けて子供たちを待っていてくれた。当時の失礼をお詫びしたいそのお宅も今は朽ち果てて見る影もない。両親が亡くなってしまった私の実家もついに朽ち果てて帰るところがない。


            過疎化が進む故郷(鹿児島県南大隅町)


村にテレビが普及する1960年代の後半頃まではいろいろな行事が盛んに行われていた。夏の夜になると六月堂といって、燈篭の木枠にさまざまな絵や文字を書いた和紙を張りつけて、これを社寺に奉納していた。ろうそくの炎の対流を使って、クルクルと回転するような工夫を施した燈篭もたくさん見られた。社寺ではこれを境内に張り渡した網に吊して灯を入れると、遊園地にでも来たかのように華やかに見えた。また、芋焼酎で酔っぱらった観衆に囲まれながらの相撲大会も盛んだった。祝日になるとどの家でも国旗を掲揚して祝い、正月になると白いシラス(火山灰)を庭中に撒いて清め、競うように立派な門松を立てて新年を祝った。そして、自家製の餅や菓子を重箱に入れて親戚中をあいさつ回りして、おせち料理をいただく風習があった。まだまだ挙げれば数えればきりがないが、このようにその時々の祝い事を大切にしていた。しかし、このような風習や行事も1960年代後半頃から次第に見られなくなっていった。そして村の共同体としての絆も次第に弱まっていったように思う。また子供たちが野外で遊んでいる姿を余り見かけなくなっていった。


これらの現象が、ちょうどテレビの普及やその他の経済成長と符合しているところをみると、物質的に豊かになり、先祖代々引き継がれてきた風習や行事に楽しみや安らぎを求めなくなっていったのかも知れない。また、テレビを通じて地方と都会との距離がなくなり、地方独特の文化や風習が失われていった。東京や大阪といった大都会は、経済的な豊かさや夢を追い求める若者をブラックホールのように飲み込んでいった。私自身も夢憧れて上京してきた一人である。故郷の過疎化は一段と進み、子供の数はいまでは当時の1/10程度まで減少しているという。


物理現象に限らず蓄積したひずみは破壊や揺り戻しによって解放されることが多い。地方の過疎化、人工の大都市集中といった社会のひずみが、災難によって解放されることがないことを祈るばかりである。


                 巨大都市東京


一方で報道、教育、文化、娯楽等のあらゆる分野で、テレビの果たしてきた役割は計り知れない。また、1953年2月、NHKがテレビ本放送開始した年を「電化元年」と称するように、テレビの開発は現在に繋がる技術革新の礎を築いたとも言える。


ところで、1964年の東京オリンピックは、テレビの普及、新幹線や首都高速道路の開通といった「オリンピック景気」といわれる好景気をもたらした。2020年東京オリンピックは、地震や津波等の防災のための国家的な社会基盤整備を強力に推し進め、安全な日本を世界にアピールする絶好の機会だと思っていた。しかし、政治利用を禁じたオリンピックを引き合いに出して、2020年憲法改正を持ち出しているようでは心もとない。


おわり

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