昭和から平成、そして未来へ_その1
高尾山にて (2018/04/29)
人は、足元でゆっくりと進行している事象の変化に気付かないことが多い。昭和から平成への移行期は、ほぼ50年毎に繰り返している技術革新による景気循環(コンドラチェフサイクル)の過渡期にあたるという。昭和から平成の時代を、企業の研究開発の現場で体感してきた者として、この時代の技術の流れや社会の変化を概観してみたい。
私が鹿児島の高校を卒業して上京し、社会人となったのが昭和45年(1970年)、まさに高度成長の真っただ中だった。当時、新宿の高層ビルといえば京王プラザホテルぐらいのものであったが、それから数年のうちに、ニョキニョキとタケノコのように多くの高層ビルが出現してきた。昭和45年当時の高卒の初任給は2万5千円、大卒3万円程度だったろうか。
それから、苦労して大学を卒業したのが昭和52年、大卒の初任給は12万円になっていた。昭和40年代後半は、戦後の高度成長時代の成果として、給料が急伸していった特筆すべき時代だった。当時は今と比べるといろいろな面で貧乏学生には恵まれていた。国立大学の授業料はタダ同然、下宿代は今と比べると格安、塾の講師でもやれば当時で時給1500円~2000円も稼げた。今でいうと時給4000円~5000円位になるだろうか。週10時間も働けば、なんとか他人には頼らず自力でやっていけた。有名国立大学ということで高給の塾や家庭教師のアルバイトは引く手あまただった。しかし、今の時代は授業料や物価が高騰し、貧乏学生にとってかすかな望みすら持てなくなってしまった。
昭和52年、再び社会人となり某メーカーに技術者として就職した。入社してからの半導体技術や実装技術の進歩は目を見張るものがあった。CPU(マイクロコンピューター)の普及により、製品の高度化、コンパクト化、低コスト化が進んでいった。
昭和60年代になるとカメラやテレビといった旧来の製品が成熟し、新技術の模索が始まった。そして平成3年(1991)~5年(1993)にかけてのバブル崩壊を得て、それまで高度成長を牽引してきた大手のエレクトロニクスメーカーを中心に、多くの優秀な技術者が職を失なったり、ヘッドハンティングにより韓国などの新興国に引き抜かれていった。私も例外ではなく、年齢的にも人生で最も充実すべき時代を、バブル崩壊による不況と大きな技術変革の荒波に飲まれながら、迷い悩み抜いたのもこの頃である。忘れ去ってしまいたいいやな思い出の多い時代だった。まさに“人生いろいろ”である。
しかし、バブル崩壊の前後の数年は、表面的には技術が停滞していたかのように見えても、水面下では様々な新たな技術が芽生えていた。いま話題の人工知能のさきがけであるニューラルネットワークの研究がブームになったのもこの頃である。インターネットもその登場の機会を伺っていた。しかし、この時代に現在のようなインターネットの普及を予測できた人がどれほどいただろうか。ほとんどいなかったと思う。一流の大企業においても、5年先の技術ですら正確に予測できないのである。想像を越えるスピードで、しかも想像すらしなかったような技術が実現していく時代である。
なんといっても平成時代になってからの大きな変化は、インターネットが世界の政治・経済・社会を根本的に変えていっていることだろう。しかし、便利になった反面、ネット依存、ネット詐欺、ウイルス等の様々な副作用も問題になっている。インターネットはまだまだ未成熟の技術であり、これらの問題を克服しながらさらに進歩していくと思う。
平成時代の特筆すべきもう一つの社会の大きな変化として、日本の産業構造が大きく変わってきたことが挙げられる。それまで、多くの日本企業が中国等の労働賃金の安い国で現地生産するようになった。その結果、中国等新興国の生産技術力が向上し、国内で大量生産して輸出で稼ぐという旧来のやり方が通用しなくなってきた。このため、昭和時代の日本の花形だったエレクトロニクス産業は風前の灯、全く勢いを失ってきた。日本企業は、競争力のより高い技術開発力が求められるようになってきたのである。
技術ばかりでなく、会社の人事制度も1995年前後から大きく変わっていった。実力主義ののもと、裁量労働制度などの新たな人事制度がつぎつぎと打ち出されていった。また、実質的に年功序列が廃止され、若者が次々と登用されるようになり、先輩と後輩の地位の逆転現象が当たり前になっていった。年長者が職場を統括する厳しくも家族的であたたかい人間関係から、効率や成果を優先するドライな人間関係へと大きく変わっていったのも、平成時代を象徴する社会の大きな変化だと思う。それは結果的に、スピードと変革が求められる新たな時代の流れに沿ったものだったと思う。
次回につづく
次回は具体的な技術の流れについて概観してみたい。
0コメント