徒然なるままに自然科学書に親しむ
しがらみの中で自分を見失いがちなサラリーマン生活を終え、気の向くままに自然科学書に親しんでみたいという思いに駆られてきた。現役時代は、目先の利益を最優先する商品の開発設計を行う部門にいたので、若い頃から興味のあった物理現象の根源的な探求に飢えていたのかも知れない。
まず、“ファイマン物理学(岩波書店発行)”5巻を購入し、1年かけて精読した。何らの実利的な目的なく、ゆったりとしたと時の流れの中で、青春時代にタイムスリップしたかのように胸をときめきさせながら夢中で読んだ。
優れた発明や発見は“Why”を突き詰めることによって生まれてくることが多い。”Why”を突き詰めた先に初めて、前人が踏み込んだことのない未開拓の領域が見えてくるからである。しかし、大学を含めた日本の教育においては、原理や法則をいかに応用するかという“How to”はよく教えてくれるが、“Why”を余り教えてくれない。短時間のうちの解答を求める受験勉強などは、“How to”の技術を磨き上げる最たるものだろう。
例えば、光の屈折率についてスネルの法則があるが、なぜ屈折するかその根源的な理由については、考える余裕も教わったこともなかった。しかし、本書ではその本質が分かりやすく丁寧に説明されている。
やや専門的になるが、光が物質に入射すると、そのエネルギーにより物質内の原子が振動することにより、入射光と直交する方向に物質固有の電場(二次光)が発生する。そして、入射光とこの二次光がベクトル合成することによって光が屈折する。本書において、このことが分かり易く説明されている。
三角プリズムに入射した光が虹色に分離されるように、屈折率は入射光の振動数(or色)や物質の種類によって異なるが、上記“ファイマン物理学”の説明によってはじめて、その本質的な理由を容易に理解できるのである。
気さくなファイマンさん
ファイマンは、自然を支配している様々な現象を、流れるような冷徹な論理の展開に、ときには神業とも思えるような独創的なひらめきを織り交ぜながら見事に解き明かしてみせる。天才とはまさにこのような人のことをいうのだろう。
“ファイマン物理学”を読むと、とっつきにくい物理学が、まるで芸術のように美しく思えてくるのは、物理現象の根源的な原理が、ファイマン独自の鋭い感性により、読者に話しかけるような親しみやすいことばで解説されているからだと思う。“ファイマン物理学”は、自然の美しさを物理学によって表現している書籍ともいえる。
“ファイマン物理学”は、高校で教わった物理学をもう少し踏み込んで楽しく勉強してみたい人におすすめの書籍である。
次に読んだのが、東京大学の教養課程で使っているという“理工系総合のための生命科学(羊土社発行)”であった。興味本位で読み始めたが余りに奥深い学問である。2年かけて3回読み直したが、いまだによく分らないところが多い。とてもこの書籍一冊で理解できるような学問ではない。初老の身、泥沼にはまり込んだまま、あの世行きにならぬよう深入りはやめておこうと思う。
生命科学は通常の工学系の学問と異なり、人間そのものを理解する学問でもある。自分とは何者かを科学的に知るうえでも参考になり、文系にも近い面白い学問ではないかと思う。また、医学の進歩により、誰でも遺伝子治療などの最先端の生命科学の恩恵を受ける時代が間近に迫っており、生命科学の基礎を教養として身に着けておくことは何かの役に立つだろう。このような時代を背景に、私の母校である東京工業大学でも生命科学が教養課程の必須科目になったと聞いている。
“理工系総合のための生命科学(羊土社発行)”は生命科学の入門書としておすすめの本である。もう一度生まれ変わるとしたら、生命科学者になってみたいという夢を抱かせてくれる書籍であった。
蛇足になるが、戦後思想界の巨人吉本隆明も一目置いた、知る人ぞ知る奇才・天才三木成夫は、“胎児の世界 (中公新書)”において、解剖学的所見から生命記憶と進化について鋭い洞察をしている。本書によると、胎児は受胎から30日余りの短い期間に、30数億年の生命進化の歴史を再現しながら成長するという。このことは、人類進化の歩みが、悠久の歴史を越えて脈々と遺伝子の中に記憶されていることを示唆している。その他、人の生理的・精神的な様々な現象を生命進化の観点から論じている。本書は、生命科学が現在ほど進歩していない時代に書かれたものであるが、上掲の生命科学に関する書籍と併せ読むとたいへん興味深い。いずれ、三木茂夫の思想を生命科学によって説明できる日がやってくるかも知れない。“胎児の世界”をはじめとする三木茂夫の著書は、生命科学を超越する自然哲学書ともいえる。何より、このような偉大な思想家が、61歳という若さでこの世を去ったことが惜しまれる。
三木茂夫の著書or遺稿として、他に“人間生命の誕生(築地書館)”、“生命の形態学 地層・記憶・リズム(うぶすな書院)”、“海・呼吸・古代形象 生命記憶と回想(うぶすな書院)”等がある。いずれも誰でも気軽に読めて、親しみやすい内容となっているので、お勧めしたい書籍である。
初老になって、何らのしがらみのないのんびりとしたひとときに、すばらしい自然科学書に出会い、これまで失っていた大切なものに初めて気づくというのも皮肉なものである。もっと若い頃、このファイマン物理学や生命科学の書籍に出会っていたら私の人生は変わっていたかもしれない。
単純労働だけでなく、高度な知識や経験に基づく業務も、ロボットや人工知能に置き換わろうという時代である。知識の詰め込みや目先の利益ばかりを追求していては、これからの時代にこそ求められる新しいものを生み出す独創力は育たないのではないだろうか。
おわり
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